おもう川の記 No.29 阿賀野川・吉田東伍

阿賀野川編の最終稿である。
阿賀野川に因む人物として吉田東伍(よしだとうご 1864〜1918 歴史地理学を創始)を採上げる。
生まれは、越後国蒲原郡保田村<=現在の阿賀野市安田>。阿賀野川流域の会津人である。
ここで新潟人と書いていたら、何ら違和感無いのだが・・・。会津人と書いたら、違和の訴が殺到しそうである。
でも、書く以上おさえるべき部分は、押えてある。
蒲原郡と書いた。それも事実に即している。
何故なら彼が生まれた元治元年(1864)当時、蒲原郡は1つであったからだ。
明治に入っての12年に。東・西・中・南・北の名を冠したそれぞれの蒲原郡に分割された。
因みに、生地の保田村(やすだ)は、東蒲原郡のうちだが。その東蒲原郡を支配する権力機構の本拠は、いつの時代も会津にあった。
いつの時代もとは、鎌倉時代から現行の新潟県域が確定する明治19年までを言う。
我々現代人は、現行の県名と配置を前提にモノを考える。そして最初からそうであったかのように思い込みがちだ。
しかし、歴史事実としての東蒲原郡域は、600年超もの長い期間継続して”会津”に向き合って来たのである。
さて、吉田の地理的周辺を長々と述べて来たが、実はそれなりの意味があってのこと。
それは何故か? それは彼の専門が、歴史地理学だからである。
彼は大正7年に53歳で死去しており、現代では名前すら忘れられたが。
彼が拓いたアカデミズムの金字塔は、未だ消えない。
この阿賀野川編を書き始めて7ヵ月目、満を持しての登場である。
彼の成したことの第1は、大著「大日本地名辞書」の完結(明治40年刊行)である。
大著とする所以は、後述するが。彼の最後の肩書は、早稲田大学教授であった。
世に俗な言い方がある。
『その前に道は無い。しかし、彼の歩いた跡がそのまま道になる』
吉田東伍が、13年の歳月を注いで書上げた地名辞書は、まさにそんな大仕事であった。
全6冊構成、掲載見出語総数4万件からして、大著と言うしかない。
採上げた地名について見解を披瀝し・根拠を明らかにし、出典も明示してあるから。現代でも十分に通用する。よって大冊・名著である。
筆者は、その存在を知ってから既に50年以上経過するが、今も時々頼りにしている。
時々とは、妙な言い回しだが。この国の古い書物は、漢文の素養を基礎にした?文字表現・文調ばかりなので、ついつい刊行時期が近い角川地名辞書や平凡社歴史地理大系などの総合事典にアクセスしてしまう。
事実、上掲3点は、備え付けある図書館の方が圧倒的に少なく。しかも肝心の「大日本地名辞書」は、地下倉庫から係員が出してくるタイプの書籍になっている事が多い。
第1巻を首巻と称するのも、大時代的だが。その冒頭に集録された各界名士による序論の多さにも呆れる。大勢過ぎてバカらしいから人数を数えないが、多士済々各方面から賛辞を集めている感がある。
その中で、吉田の経歴を略述する高橋義彦が書いたもの、友人であった市島謙吉による序文、そして同学=喜田貞吉のそれの都合3作が、記憶に残るものである。
以上が今日用意した原稿の大宗である。
以下に述べることは、格別耳新しいことではない。
しかし、未知未開の領域を単身で開拓した人が実際に存在したことを知ると、何となく力づけられるし・不思議に希望が湧く。
吉田はこれほどの大学者になったが、見るべき学歴はほぼ無い。
幕末生まれの事情もあるが、中等教育を途中で投げ出したくらいの乏しい教育歴である。よって学歴と言えば、全くの独学である。
しかし、前人未到の荒野をパイオニアとして切り羽に立って、新しい学問分野を切り拓き、この国の歴史地理学を樹立した。
仮に高等学歴の場に身を置いたとしても、倣うべきその先達者が存在しない分野・領域に踏み出している。まさに皆が避けたがる荒野にまっすぐ踏込んだ感じだ。
似たような境遇の人を探せば、筆者の乏しい知見の中にもう一人だけ居る。
白川静(しらかわしずか 1910〜2006 漢文学、古代漢字学、東洋学)である。
彼もまた、教育環境に恵まれず、吉田同様にほぼ独学で、これまた前人未到の荒野をパイオニアとして独歩独行し。金字塔を樹立した。
最後に、学歴に薄い・在野の人が、学問領域で名を成すことがどれほど困難事であるかを述べて、本稿阿賀野川編の最終稿を閉じることとしたい。
日本列島の地名を集めて・調べて・辞書を作るには、まず既成の書籍・文献に当る必要がある。
学歴に薄い・在野の人には、コネの力が働きにくい。そこがこのような仕事をする際の最大のネック・障害だ。吉田も書籍・文献へのアクセスに苦労した。
この点において全く正反対の例を示しておく
柳田国男(やなぎだくにお 1875〜1962 日本民俗学創始者 柳田地名学)が、こんなことを言っている。
”いわゆる郡村誌・小字名調書(=原本)を、柳田は「兼任内閣書記官記録課長」の職名を利用して、取寄せて・これに眼を通した”  <柳田国男著・地名の研究「地名と地理」より>
この抜書き記事で判ることは、とりあえず2つある。
まず、郡村誌・小字名調書なる柳田の地名研究が始まるキッカケとなった原始資料について、簡単に考察することとしよう。
明治初年新政府は、全国各府県に小字名の調査を命令した。その結果各府県から上がって来た報告書をこの際”いわゆる郡村誌・小字名調書(=原本)”と仮称したが、実に膨大な量であった。
明治14年頃、財政的に破綻した明治新政は、この事業を放り出し。膨大な量の小字名調書を時の東京帝国大学に寄託した。これの一部が、柳田の地名研究の原始資料となった。
その資料は、柳田が東京帝大法科大学を卒業した(=最高の学歴)内務省高級官僚であったからこそ取寄せることが出来た。
柳田はそれを広言しているが、吉田東伍の方は、そんな資料が存在することすら、おそらく知らなかったことであろう。
なお、その小字名調書は、その後 関東大震災で消失全損した。
次に着眼したいのは、柳田が小字名調書を取寄せた時期である。おそらく記録課長職に就いた明治43 年以降となろう。「大日本地名辞書」が刊行された明治40年に遅れること3年である。
そして日本民俗学創始者・巨星・柳田は、民俗的地名研究でも新分野を築き上げた=柳田地名学とも言う。
つまり、日本の地名研究とは、まず吉田が、次いで柳田が。それぞれ異なる思想とアプローチでもって、創始したことになる。
そのこと=すなわち新政府が一旦は国の事業として掲げておきながら・途中で投げ出してしまった。
それほどの大事業を、2人の巨人が個人の立場で苦心惨憺完遂した。
集団の事業と個人の仕事 成る・成らない点で、結果の違いは大きい。
その単純な事実を忘れてはならない。