もがみ川感走録 第6 最上川舟唄の2

もがみ川は、最上川である。
今日は、最上川舟唄の第2節。引続き「舟唄」について述べる。
「小鵜飼船」を第1節で宿題にした。
さて、最上川の急流イメージを否定するつもりは毛頭ないが、ランク付されるほどの差別性は無いと思う。旨を、前項で述べたが。最上川の全流は、到底1つの形に嵌らないようだ。
さて、「舟唄」だが、労働唄である。船乗りの心情が素直に表出された良い歌詞に胸打たれる。
第1連の歌詞を抜書きする
  酒田さ行くさげ  マメ(達者と書いてマメとルビ)でろちゃ
  ハヤリ風邪(漢字で流行風邪)など  ひかねよに
旅発ち、恋人との別れのシーンだ
出発地は不明だが、ひと航走=往復に要した日数が半月より短いことはなかったであろう。
ハヤリ風邪に想いを致し、口に出して。見送る恋人の健康に、男の気づかいを現わす。
現代風に言えば、ツツガムシ病も含めた地域病。真剣さ溢れる。
酒田港に向けての舟下り航走は、流れのままに”下る”だけ。気持に悠りがある。
位置エネルギーに従う”川下ろし”は、肉体的に楽。ただ、下り荷を濡らさない気苦労は別。
目的地で荷を下ろし・帰り荷を積む。
”川上り”は、出発地に舞い戻る希望の旅路だが、とてもきつい肉体労働が待っている。
全身の疲労に重ねて、支流のどこかで俄か雨が降り。予期せぬ出水・増水があれば、生命を失いかねない。
動力船が当たり前の現代、この時代の苦労を思いやることも・事情納得すら容易でない・・・
海でも川でも変わり無く船乗りは、『板子1枚 その下地獄』の命懸けの日常であった。
この時代 過酷労働かつハイリスクの短命な仕事は多々あった。
ワースト3が、佐渡の金山働き、船乗り、駕篭かきであった。
さて、最上川の舟運だが。舟1艘ごとに、乗組員は固定されつつ他方で。概ね20艘集まって、1つの船団を組成する共同運航制であった。因みに共同運航は、海を往く北前船の慣行でもあり。「舫(もやい)」と言う。
流れに逆らう”川上り”は、舵取り担当のベテランが乗船し・若い方の船員が陸に揚って綱を引いた。
舵取りとは、舟1艘の運航責任者の意味だが。川上りで舵を使うことは、殆どなく。川中に竿を差して舟を押し上げる仕事に、専念した。
船上の竿使いも・陸上の綱取りもともに、肉体的に相当キツい、実に過酷な労働であった。
帆も付いているが、海と異なり・使用上の困難度が高かった。狭く細長い帯状の川幅に適した風が吹くはずもなく・川沿いの山の姿を受ける風の方向は不安定でもあった。
川での帆走航行は殊の外難しい。
難所にさしかかると、船団統括者の指図により。多人数で1艘の船を引く編成に移行した。
難所の下流にある静水部に船団の船を溜め・見張りを置き。残り全員が陸に揚って、綱を引いた。
特に若衆の力を結集し、難所を凌ぎ。何度も往復して、上流の船溜りまで。船団に属する全ての船を引揚げた。
難所を過ぎれば、通常の1艘ごと編成に戻る。難所通過ごとにその繰返しであった。
船引作業の共同編成は、難所だけでなく・臨時増水・積み荷の種類・量に応じた吃水の変動など。刻々の状況に応じて、随時に対処する必要があった。
時に特別の応援体制=船乗り以外の外部支援を仰ぐこともあった。
物資運送の世界は、競争原理が最も強く働らく。一番到着の荷に、ご祝儀相場が立つ例だ。
その場合、難所越え(=下の静水部から上の船溜まりでの待ち時間=ロスタイムとなる)が、山場。近隣の農家から応援隊を繰出し、ロスを減らす工夫がなされた。
ビジネスはまさにアイデアの勝負である。
西洋では、牛馬をもって引く例がある。パナマ運河では機関車が引くらしい,最上川はひたすら人力依存であった。
船引き要員が歩く川べりの道、それも全く整備されていなかった。
荒野の中を踏み進む、時に水田の畦を踏み抜くことがあった。
農家にとって畦壊しは、大重罪だ。藩庁への提訴もまた多かった。
最上川を上り・下りする船は、入り乱れて積み荷を争い・到着順を争ったらしい。
船の持ち主と乗組員とは、多く別人にして・しかも相互は何らかの継続雇用または遠縁姻戚にあったことであろう。
そこに自ずから親交と対立が生まれた。
さかたブネ・酒田衆とは、酒田商人の持ち船にして・乗組員もまた酒田の人であったろう。
もがみブネ・最上衆とは、なんと酒田以外の他地域を総称したらしい。
さすれば、「舟唄」は最上衆の立場で唄われており。上流から河口の港に向かおうとする船乗りの緊張と意気込みを表している。
船乗りの命懸けには、自然に立向かう脅威・突発的災害による不慮の事態・そして対立から抗争へと進みかねない酒田衆への虞れなど。もろもろの場面があった。
さて、読者は、ここに述べた船乗りの生活描写から。どの最上川の光景を思い描きましたか?
おそらく個々人の思い出の風景が、瞼に浮かんだことでしょう。
しかし、最上川は、1つではありません。
下流中流・上流と遡るごとに、川幅も水量も急流も、船乗りの気風も、乗る舟の形から、操船の方法まで。全てが変る必要があったのです。
唯一共通していたのは、命懸けのキツい日常でした。
閑話休題
「舟唄の碑」は、前稿で述べたが。左沢(=あてらざわ)の高い丘の上・川面を見下ろす、急な崖の上に建っている。
左沢は、最上川水運の一大拠点で。川の畔に上杉・米澤藩の船小屋があった。
しかし、碁点橋より上流域の船と人と物が、河口の酒田に届くのは、江戸時代に入ってからである。
その以前つまり太古から酒田に達し得たのは、川水だけであった。
難所の岩礁が、舟と物資の往来を、長いこと阻んでいたからである。
置賜・米澤の地域では、物流手段として。眼前を流れる松川・最上川を、酒田と結びつけて考えられない時代が、とても長く続いた。
難所=黒滝の開鑿と新鋭船=小鵜飼船の登場は、次の稿になる。
さて、締めくくりは左沢である。
名うての難読地名だ。この国には、角川辞書・平凡社歴史大系の2大地名総典がある。
筆者の閲読では、どちらも”左沢”が唯一の出例であった。
”左”字を頭書する地名は少なからずあるが、「あてら」と発音する例が他にないのだ。
筆者も「あてら・音」の地名は、収集できていない。
「あてら」と発音する地名の由来を独断と偏見により、想像たくましく考察してみたい
とりあえず2つある。
まず、本流と支流が合流する付近である。
船の舵取りは、どっちの水流が強いかを、適確に読み取って。どちらかの流れに、舳先をうまく当て・上手に逸らして。進行方向を思うままに、制御する必要がある。
そんなケース。特に流れの強い支流もしくは季節により・降雨の状況により。千変万化する厄介な難所は、船乗りの間で話題・伝承となり。やがて記憶すべき有名地名となろう。
舟運が衰え、かつ忘れ去られて久しい現代では、2階から目薬を差している感ありだが・・・
次に、水流の読めない危険箇所である。
合流の有無にかかわらず、ストリームが千変万化する川中である。
水脈と川幅とは、多く一致しない。水流は、見えない水面下の地形に影響される。しかも渇水豊水時=水流の量に応じて=とでは、全く別の動きをする。
河川の水流は、川幅の広狭に関わらず蛇行するし、日々動く。舟の舵取りは、舟と積み荷の安全を思い・船曳き衆の疲労を軽くするように操船する。
そのような大難所で、船曳き達が進む川岸を対岸側に切換える必要が生じたか?
船引きの途中に、川を横切って”あちら側”に渡ることは、これまた命懸けだ。
成功・生還し冒険談となる、後日仲間うちの話題にのぼる。
話題は、地名を印象づける契機であり・時に地名を創出する好機となろう