おもう川の記 No.28 阿賀野川と伊藤辰治

阿賀野川の続編である。
この阿賀野川シリーズは、初稿(その9・3月29日)から数えて今日で20節となるが、そろそろゴールま近い。
阿賀野川に因む人物として、2人描くことにした。
まず一人目である。
さて、この年=2014のトピックスと言えば、アフリカにおけるエボラ出血熱<=ここではエマージング・ウイルスと措定する=>の猛威である。
この手の話題を論ずるための知見を、筆者は全く持合せないのだが・・・人類と科学の関係について一言苦言を呈したい。
医学や生物科学における知識蓄積が不十分と言うよりも、軍事科学と金儲け科学が突出するなど。我々現代人のセレクト・アンバランスに起因する?知識面の歪み・偏りがある。
もちろん、外周大枠での素人による漠然としたイメージなのだが・・・・
マズいことに人類は、異常に個体数を膨張させてしまい、その結果地球が狭くなってしまった。
その結果 本来人類が踏込むべきでない密林にまで、時々人が入り込む。
そしてエマージング・ウイルスと接触し、意図せず持ち帰ってしまったかもしれない
そもそも人間と言う生物中の1種族のみが、突出膨張する事態は、「種の絶滅」に急接近する危険な道筋でもある。
そろそろ人類は、根本から真剣に考え直し。成長戦略モデルから離脱すべきである。
また新薬創出を狙って危険な熱帯ジャングルに意図して入り込む者がいる。
この異常な探索行動の背景に、金銭的利益の追求と言う究極のエゴがある。
このような個人的行動が、居住圏域にエボラ出血熱を撒き散らした可能性がある。
自由と競争の原理に立つ資本主義的パラダイムには、行き過ぎが目立つ。
そこに内在する本質的欠陥が顕在化した一面。それがエボラ出血熱蔓延の原因と言えないだろうか?
・・・・とまあ、外枠からのイメージを述べたが。布石として、いささか遠大過ぎたかな?
2014年列島版トピックスと言えば、70年ぶりのデング熱患者発見報告である。
70年ぶりに発見した担当医師は、偉業を成就した。
デング熱患者は、その以前から列島内に多数存在した。だが、デング熱は人間の間で感染することは無い。よって、海外渡航歴の無い患者が発病したのは、実にミステリアスな・同時に偉大な発見であった。
その背景・真相は、間もなく公知の事となった。
都内各所の公園が閉鎖され・媒介する蚊の駆除活動を、メディアが報道している。
しかし、感染源が都内におさまるは、ただの願望に終るであろう。
ひとまず秋が到来して、年内は都内のみで収束しても。来夏の拡大・再発の懸念なしとしない。
この2つ目の布石もまた、いささか漫然過ぎたかも?
さほどに、列島人の平和ボケは深刻でもあるのだが・・・・
さて、阿賀野川だ、揚川とも書く。筆者は、阿賀野川以北の空間=揚北(あがきた)地域こそ典型的な東北であると考えている。その特色はこうだ。
揚北は、川の水が豊富。よってコメが採れ・しかもコメを他地域に移出する。
その背景として、降雪と人口過少の2つが横たわる。
しかもこれは、秋田・山形・新潟の日本海側の東北に当てはまる特色である。
ここでの地域的特色とは、優位性の意味である。
一見奇異に思えるかもしれないが、雪が多く降る自然環境や人口が少なく生産したコメが余る社会現象が、優位さをもたらす真相である。
先の稿<No.25=8月28日>で述べた「北前船」の活躍舞台が、日本海であるのもまた。他地域に移出できるほど過剰に産出するコメの存在と無縁でない。
この3県に絡む地域的優位性が、実はまだある。
ツツガムシ病で死亡する人が圧倒的に少ない。つまり、恙虫シンドローム対策の先進地域である。
細かく言えば、新潟県内の信濃川流域を該当地域に含める必要がある。
さて、文部省・唱歌「故郷」の歌詞に
  如何に居ます父・母  恙無しや友ガキ ・・ 第2連出だし・以下略
とある。
 ”恙無し” は、ツツガムシ病罹病への虞れを踏まえている。
平和ボケ列島では、この手の風土病が既に絶滅したものと誤解されている。
その点 ツツガムシ病とデング熱は、双子の兄弟と言えよう。
人と人の間では感染しない。病原体<=ツツガムシ病はリケッチア>をある種の医動物が媒介する。刺された部位の皮膚に潰瘍が残ることがある。
高熱を発する患者が居ても、多くは風邪と誤診されやすい。患者の一部は死に至ることがある。そして、未だ有効な予防ワクチンは無い。
症状など摘記してみたが、素人の筆者から見ても、この2病はとてもよく似ている。
さて恙虫病医動物研究の第1人者として伊藤辰治(1904〜85 病理学)を挙げておく。
ごく簡単に言えば、伊藤は先の稿<No.23=8月3日>で採上げた野口英世(1876〜1928 細菌学)と同じ、医学領域の研究者である。
この2人には地域的にも共有するものがある、1つの川の上流域で生まれた野口・対する伊藤はその同じ川の河口域で活躍した。
1つの川とは阿賀野川であり、猪苗代湖が上流・河口とは新潟市である。
その新潟市で、伊藤は医学者となり・新潟大学医学部長・学長などを歴任した。
ただ、2人の生まれた時期の差=約30年のズレは、決定的な業績の違いをもたらした。
1930年代を待たずに死去した野口は、光学顕微鏡しか知らなかった。
それに対して、電子顕微鏡が出現し・間もなく実用化した1930年代以降の医学界に身を置いた伊藤は、電子顕微鏡の恩恵に浴した。
野口は、光学顕微鏡を使って。細菌性病原体を追い求めつつ、細菌より微小な病原体が確実に存在することを知り。予言的要素の濃い研究レポートをものした。
往々にして、予言は外れる・予言は生物科学ではまだしも・医学界では異端扱いされる。
電子顕微鏡は、細菌よりも小さい病原体(=リケッチア&ヴィールスが代表、必ずしも微生物と要約できない)を視認する事を可能にしたスーパー・デヴァイスであり。この機材が世に出た時期に偶々シンクロナイズした研究者は、比較的容易に名声をものすることが出来た。
因みに良く知られたリケッチア・シンドロームに、発疹チフス&ツツガムシ病の2つがある。
今日の予定稿は以上である。
例によって、余談を
伊藤は、新潟県は荒川と胎内川に挟まれた旧・中条町に生まれた。因みに旧姓は高橋と言い、後世新潟県最大の地主である伊藤家の猶子となった。
そして、その伊藤家に連なる文化人=会津八一(1881〜1956 美術史・歌人・書家 雅号=秋艸道人)と懇意になった。ありていに言えば、北方文化博物館施設内で隣人同志となり・親交を結んだらしい。
八一は、戦時中の一時期 父の縁故地である旧・中条町疎開していた。
共通の話題に事欠かなかったことであろう。