おもう川の記 No.27 阿賀野川と米澤藩

阿賀野川の続編である。
今日は、米澤藩の江戸廻材を採上げる。
廻材とは、字面どおり木材を搬送することである。米であれば、廻米(かいまい)であり日常のことだが。建築用材を、それも米澤藩が阿賀野川を利用するとは珍しい・否あり得ない難事とするべきであろう。
現代ならまだしも、江戸時代に外様大名が、隣接藩と云え・親藩大名の領地を通過して。それも藩の用材を運送したのである。
珍事にして難事であることを踏まえつつ、本論へ進もう。
時は、1772年のことである。明和の大火により、上杉・米澤藩の桜田上屋敷>・麻布<中屋敷>にある2つの屋敷が類焼により失われた。因みに下屋敷は芝白金にあり消失を免れた。
さて明和9年2月29日の火災だ。江戸町民14,700人が死亡し、4,060人が行方不明。消失町数904。損失規模において上位1桁に入る大規模火災であった。別名を火元<=目黒にあった寺>に因んで”行人坂大火”とも言う。
上杉・米澤藩ではただちに復興を図ることとし、藩林御用木を使用することが決った。建設用木材=大小1,050本は、藩内の塩路平にある御林から切出すことになった。
しかし、最大の課題は、伐採後にどうやって海辺まで移送し・江戸まで回送するかであった。
もちろん伊勢神宮式年遷宮や長野・諏訪大社御柱よろしく全行程陸送も可能性として否定すべきでないが?
内陸・深山部に立地する置賜・米澤地区では、時代を問わず。この手のことは、ある意味手慣れた課題である。しかし事は大木かつ大量の藩用材・更に遠路の江戸まで運んだ経験がなかった。
塩路平のある米沢市田沢地区は、最寄りの河川=小樽川を使っての木流しがあるが、薪が主体であって。川幅と水量を踏まえれば、大型用材を川下しにより・下流最上川に繋げることは無理であった・・・・置賜民俗学会・梅津幸保氏の見解による
そこで異例だが上掲の阿賀野川ルートが創案された。
時の米澤第9代藩主・上杉治憲(はるのり 1751〜1822 隠居後の号=鷹山)が、場所は江戸城中 いわゆる殿中でござる。会津第5代藩主・会津容頌(かたのぶ 1744〜1805)に対して、直接申入れし・了解を取り付けたと言う。
本節の主題は、あくまでも河川運送である。
直前の稿に引続いて、本節もまた、意外・吃驚となってしまった。
前稿着手の直前まで、会津藩産米のメイン輸送経路は、大河=阿賀野川ルートと思い込んでいた。
ウラを取る段階で、当初の目論見が大きく外れた事に気がついた。
そこで慌てて、陸路の下野街道<=いわゆる会津東街道>と内陸河川の鬼怒川による複合輸送ルートを文献上でのみ追いかけた。本来行うべき現地フォロウが、事後となってしまい残念である。
さて、本題に戻ろう。
伐採された用材は、伐地の塩路平から藩境の大峠を越えて会津藩・入田付村まで米澤藩士が運んだ。入田付村から塩川(米澤街道と日橋川<にっぱし・がわ=阿賀野川の上流>が交差する位置)まで雇い上げ人足により・そこから筏を組んで川下しされ・会津藩指定港たる津川へ。津川〜新潟は、通常の阿賀野川航路だが・新潟〜江戸の間は東回り航路をもって輸送された。
以上が、本節の太宗である。
これからが、お断りである。
上述した内容は、置賜民俗学会会誌「置賜の民俗・第20号」に載っている守谷英一氏の論文を筆者が抽出意訳したものである。
筆者は、この論稿を元の職場の先輩にして・置賜民俗学会会員・草木供養塔研究者である”健沢先師”<ただし奉号>からご恵送賜った。
以上が、ごく簡単なお断りである。
なお、以下は参考文献に関するお断りである。筆者は本稿を書くにあたり、当るべき下記資料に未だ接することが出来ないでいる。残念だが、事後処理すべき課題として記録しておきたい。
1、米澤藩側史料・・・鷹山公偉蹟録 by甘糟継成
2、同上  ・・・  米沢市史 別編 大年表
3、会津藩側史料・・・会北史談 第51号所載 川口芳昭氏の論文
4、同上  ・・・  会北史談 第54号所載 菊地真州男氏の論文
以上をもってお断りを締め括る。
以下に筆者の独断と偏見による怪?説=余談を展開する。
1 火事と喧嘩は、江戸のハナらしい。
関ヶ原戦役から大政奉還までざっと270年弱のうち江戸では約50回も大火があった。同じ期間中、大都市=京・大阪・金沢でも大火はあったが、各々1桁台であった。
江戸は学習効果乏しく・江戸詰め武家は単身男所帯で火の縛りが甘過ぎた。と言えよう。
ハナは、ハナでも。鼻につく方のハナかな?
2 街道の話
大峠越えは、米澤街道の間道である。本道は、桧原峠越え<最上川源流がある>の方。
まだある=喜多方市・川入を通る最も西側のルートである。その昔、飯豊山信仰登山道として使われた道に沿い福島県山形県とを結ぶコースである。
米澤藩も会津藩も四方を山に囲まれた・いわゆる誇り高い山岳魂の圏域だが、この「江戸廻材」で、最も被害を被ったのは。なんと入田付村の百姓達であった。会津藩庁から街道整備の重い労務提供を仰せつかったからだ。
そもそも大峠越え間道は、会津側に口留番所が置かれ・藩主加藤嘉明治世の1627年以来・閉鎖されていた。
急遽涌き上った大木輸送のために崩れた路肩を補修し・薮を苅り払い・塞ぐ雑木を抜いたりの大仕事であった。やれやれ、それもこの時1回きりの街道利用であった。
米澤と会津は、南北の隣接した位置関係にありながら。相互領地の参勤交代ルート供用がなかった。米澤藩は、板谷峠を越えて江戸に向かったが。藩内を通過する他藩が無い=珍しい僻地藩であった。他方の会津藩は、領内を通過する他藩の参勤交代受容があった。越後・白河の両街道(東西方向への移動)利用の新発田・村上の両藩である。
3 赤貧の米澤
江戸時代を通じて、米澤藩の財政窮乏は常態のこと・かつ天下に有名であった。
会津の殿様は、それを十分知っていたから。異例の了承をもって応じたのであろう。
決して会津松平家代々が「容」の字<寛容の「容」だ>を使ったせいではなかろう。
さて、米澤藩の財政窮乏は、温情ある?人事政策に主因があった。正確に言えば、放漫経営・無策であった。
上杉景勝会津入封時の石高は、120 万石。この「江戸廻材」時の石高は僅かに15万石。8分の1に藩の規模が縮小しながら、藩士の召放ちを1度も実施しなかった。
大藩規模の6千人体制を維持し続けたのである。リストラを回避した分、藩の内(上も下も)も外も赤貧一辺倒の厳しさを味わい続けた。
4 米澤の北は山形・そして南は会津なり
上杉・米澤藩は、関ヶ原戦役の後・家康差配により・会津から米澤に減封・入部した。
保科正之は、まず山形藩に増封・入部し。後に、更に増封されて・山形から会津に移った。家光の腹違いの弟であったことによる措置と言えよう。
米澤藩にとって、隣の実力ある大藩との親交は、とても大事である。
第3代藩主・綱勝(つなかつ 1639〜1664)は、嗣子無く急死した。この場合の幕閣の政道常策は速やかなる改易処分である。しかし、異例にも米澤藩は、潰されずに生き延びた。
かつて北に居て南に移った隣人の保科正之が窮地を救ってくれたのである。
保科は、幕閣の外にあって事実上の幕府執政であったし、4代将軍の下 太平の世に向けて穏やかな政治への移行を進めていた。
姻戚として繋がりある高家旗本・吉良家から末期養子として第4代藩主・綱憲(つなのり 1663〜1704 第2代上杉定勝の外孫にあたる)を迎えた。半分の15万石に減知されたが、異例の救済措置であった。
筆者は更に突っ込む。
保科正之が養子として入った保科家は、武田武士系の名門家格であった。徳川譜代の大名・直参・旗本の中に武田家旧臣が多いこともまた事実である。川中島の好敵手たる上杉を存続させた方が、互いに名門名家として名を残せるメリットもあったであろう。
最後の余談をしよう
忠臣蔵で有名な”殿中刃傷”は、元禄14年3月<1701年4月>に、”赤穂浪士討入”は、翌15年12月<1703年1月>に、それぞれ起った。
吉良と上杉は、もともと姻戚関係にあったが。上掲の異例の末期養子で、一層関係が濃密になった。
そのフィクサー役を果たした保科正之(1611〜1673)は、事件前の1673年に死去しているが。会津松平家家祖にして初代アイズ藩主。
討入りの合図<アイズ>をする陣太鼓は、高名な山鹿流である。山鹿素行(1622〜1685)は、若松城下に生まれたアイズ人である。
ここで実に不思議な”アイズ”の語呂合わせを発見して驚くのは筆者のみである。
この2人のアイズ人が動いたから、歌舞伎18番忠臣蔵が際立つ当たり狂言になったのであろう