もがみ川感走録 第4 最上姓の2人

もがみ川は、最上川である。今日はその本文第3節
直前の稿で、河口=酒田港の来歴を少しだけ述べた。
よって、今日は河口<=こっちの端>の逆サイド=もう一方の端=源流について述べる。
源流の現地視察は、本稿初稿(8月8日)で既に触れた、簡略に留める。
河口・酒田からおよそ水平距離300km・標高差2,000m離れる。そこは福島県境の山脈である吾妻山系の北斜面・最上川の上流・支流=松川の最高流域点に当る。
当り前のことだが、河口から源流点を見ることは出来ないが、この2点間を結ぶ想定上の直線を考える。全ての川の方位に拘る流儀なので、暫くお付合い願いたい。
この線のことを全流方位措定線と呼んでいる。
さて、源流と思われるポイントに立って、河口の方を眺めたとしよう。その方角は、最上川では真北よりほぼ10度西に傾いていた。
次に、その「全流方位措定線」の意味について、かなり踏込んだ独善を聞いて頂こう。
日本海に注ぐ川は、これまで2つしか方位を決めてないので。未だ何かを論ズベき時期ではないが。日本海側の川は、概ね北に向かって流れ・逆に太平洋側を河口とする川は南に向かって流れ下る。と言いたい。
もちろん、何事にも例外はあろう。阿武隈川なんかがそうだと思うが・・・未だ全流方位措定線を決定してない段階なので、明示は避けたい。
因みに、既に方位を決めた2つの川とは、本稿の最上川阿賀野川(おもう川の記No.11。阿賀野川第3節=5月3日の記事)である。
閑話休題
今日も川の名”もがみ”について考察する。
地名語源辞典なる書籍がある。図書館でチラ見したが、何とも大冊である。
その429頁に「アイヌ語地名対訳表」があるので、”もがみ”を2語〜3語に分解して。意味について手がかりを求めたが、ヒットしなかった。
続編がある事に気がついて、抜読みしたら。アイヌ語で「モ」は岩、「カミ」は奇とあるのを発見した=続編・186頁。これを都合よく繋げれば、”奇岩”とあいなる。
そこで、もう一度正編を取出して。「アイヌ語地名対訳表」の該当箇所を精査したが、見出語24件「モ」の中に同趣旨の記事は見当たらなかった。
因みに正編(1968校倉書房刊)・続編(1979同社刊)ともに著者は山中襄太とある。詳しい事情は知りようもないが、正・続を著述する11年の間に掴み得た研究成果であろうか?
次に、人名”もがみ”を考えたい。
川の名=地名と人名は、共通の事情から成るとの俗説?に立って考察してみよう。
まず、最上義光(もがみ・よしあき 1546〜1614)である。
彼の祖先と出羽国との縁は、室町時代の初め頃まで遡る。足利一門である奥州探題斯波家兼の次男が、最上郡に入部し・山形城を築いた。それが始まりである。現代の山形県なる地名もその「山形城」に由来すると言うから、由緒正しい家柄と言えよう。
当人は、関ヶ原戦役までに出羽の南半分を平定し・戦役で勝った徳川家からその地で57万石の大名に指命された。しかし、彼の死後、藩内騒動が起り末裔は大名でなくなったから、彼の業績は萎んでしまい・忘れられた。
しかし、戦国から江戸初期にかけての同時代活躍人=仙台に拠点を残した伊達政宗と肩を並べる東北最大の英傑と評されてよい人物である。
子孫は、1622年近江大森1万石へ減石転封。更に1631年その嗣子が5千石減封されて一代限り高家旗本へ・後に交代寄合旗本とされた。
義光に特筆すべき業績がある。それは、最上川改良工事での貢献である。
前稿で、平泉に本拠を置いた奥州藤原氏が京都との連絡経路として最上川を利用した旨を書いたが。
違和を感じた人が多かったかもしれない。しかし、河口酒田港と平泉との直線距離は、概ね150km程度に収まる近さである。
河川交通に対して現代人は無頓着過ぎる・文明開化以前を忘却してしまっている。中にはハナから無関心・結果において無知なだけの人が多い。
最上川舟運における最高到達点は、長いこと清水河岸<現・大蔵町>であった。
川の水だけが、上流から下流に流れ下っていた。
船による行き来は、有史以来、僅かに、酒田と清水河岸の間だけであった。
山形と酒田の間の舟運を具体的に構想し・実現させたのは、最上義光であった。
酒田港と山形最寄りの中野・船町との間を10隻の船団が初めて往来したのは、天正15(1587)年のことであると文献にあるそうだ。山形城主の命を享けて、この冒険に飛び込んだのは、酒田の豪商・粕谷源次郎と言われている。
それに先立つ天正8(1580)年から三難所として有名な河川蛇行・川底岩礁突起著しい碁点・三ヶ瀬・隼の開鑿工事が始まっている。単にそのような文献記録があるのみで、実態がよく判らない。
慶長11(1606)年にも最上藩士・奉行斉藤伊予が工事を実施したとの記録があり、この難工事が何時頃完成したかがいま一つ判らない。
筆者も一度だけ、碁点橋の袂から出る観光船に乗船したが。貸切乗船ではあったが、岩盤開鑿の痕跡を船上から確かめるまでに至らなかった。前日の豪雨を受けた川は怒っていた。
名うての暴れ川であり、増水・渇水の状況変化により。船の底と川の中の突起岩礁との距離は、刻々目まぐるしく変るなど。自然地形が危険な箇所であることは、素人目にも判った。
最上川の近世は、最上義光の時代に最上義光と共に始まった。このことは間違いない事実と言えよう。
三難所のある現・村山市に因む・いま一人の”もがみサン”を採上げて、終講としたい。
最上徳内(とくない 1755〜1836 蝦夷地探検)は村山群楯岡村(現・村山市)の貧農の子として生まれた。若くして江戸に出て天文・測量のワザを身につけ、それが縁となり幕臣の配下として天明5(1785)年から前後9回・約40年間蝦夷の各地<カラフト・クナシリ・エトロフ・ウルップなどを含む>を探検した。
その背景を述べる。
当時列島内外に異国船が出没して海防事情が切迫していた。
世界人類史的に、産業革命と共に急増した夜間照明ニーズとして捕鯨産業の躍進がある。それは、19世紀の終り頃、石油の機械による汲上が始まると急速に衰えた。
捕鯨は極めて一過性で終わったが、当時既に通商開国がブームであった。
最上徳内に絡む蝦夷地に限れば、1792年ロシア使節ラクスマン根室に・1804年ロザノフ長崎に来るの2事件があった。いずれも通称を求めての来日。
この時期の蝦夷地探検は、あまりに盛沢山。ここでは名前の羅列だけに留める。
伊能忠敬近藤重蔵松浦武四郎間宮林蔵などである。
多くは仕事柄地図作成の必要から測量術を修めた。結果、当時の国際派に属した彼らは、リスキーでもあった。
中でも徳内は、かのシーボルトと面識があり、特に危なかった。日・蘭・独語による「アイノ語辞典」を2人で共同編纂しており、1828年のいわゆるシーボルト事件に連座しなかったのは実に幸いであったとしておこう。