おもう川の記 No.26 阿賀野川の物資

阿賀野川の続編である。
直前の稿で北前船についてかなりロングな話をした。
北前船が藩政時代に会津へ運び込んだ物資は、会津住人(官民を問わず)にとって日常生活に必須な消費財であった。
「あいず」=”津”なる地名を持ちながら会津地域に商港は無い。
会津藩政庁は、城の真下で船が荷揚げする光景を眺めるための努力を行なったが。津川〜若松間にある阿賀川(=大川とも言う)の開鑿工事は、舟航を受け容れる結果に至らなかったらしい。
いつの時代もそうだが、物資輸送は挙げて確実性とコストの2点にある。陸・水接点での積替は、荷いたみやコスト増加が生ずる。水路一貫輸送が熱望されたことは疑いの余地がない。
その点で、水路オンリーの輸送が望ましく。人が自ら往く「街道」の旅と、”物資輸送”とは少し様相が異なる。
会津のような山に囲まれた閉鎖圏では、陸・水路のミックス移送は避けられず。この川面を眺めるシリーズも今回に限って、街道ルートとの接点を探ることになってしまった。
阿賀野川では、津川〜新潟の間を船が往来した。津川<越後国・蒲原郡。会津藩領のうち。明治以降は俗に東蒲原と呼ぶ>は、会津藩の外港としての役割を果たした。
津川にあるニシン鉢は、会津にもある。鯡漬は、共通の郷土料理である。
食材である鯡(=にしん)が採取地の北海道から北前船経由で、運び込まれたことは言うまでもない。
津川は、食用塩の荷下ろし地でもあった。会津には”西方塩”なる独自の呼名があって、藩の外から移入される塩を珍重した。なお、会津地内には、”塩○”の地名が多くあり、山塩の産出があったものと考えられる。
また津川は、江戸〜佐渡の間を結ぶ越後街道の宿場でもあった。
佐渡は、幕藩期を通じて金を産出した。江戸〜佐渡を結ぶ3本の道は、五街道に継ぐ重要な道であった。
以下に越後街道に関わる部分を抜き出して略述する。
江戸を出発して北に向かう、奥州街道を白河まで。白河で岐れて、西に進む=白河街道(那須山の北と猪苗代湖の南を通過する)を会津若松へ。若松〜津川を経由して、新発田城下へ。さらに日本海岸の寺泊、ここまで陸路。寺泊から佐渡は海路しかない。もちろん越後側では,その道を会津街道と呼ぶ。
次に会津から域外に運び出された、主な藩政時代の物資を紹介しておこう。
地域の特産物であるコメ・蝋・漆・青苧などだ。
コメ以外の3品は、いわゆる地域特産であり。蝋は当時の照明材たるロウソクの原料、会津絵ロウソクとして現代でも命脈を保つと言う。漆はこれまた現代会津塗りに繋がる主要原料で、ともに山国にふさわしい産物である。
青苧(あおそ。苧麻=ちょま。ラミーは苧麻の変種)とは、カラムシ織の原料である。
これまた現代では越後上布<残存する産地は、会津・昭和村のみと言われる>と南西諸島=宮古上布として知られる高級麻織物の基礎原料だ。
現代ではいささか忘れ去られた衣料素材と思われている麻だが、人類最古の長繊維として広く世界中に分布する基幹素材である。
樹皮繊維(=フジ・コウゾ)でつくられた織物も麻織物に含めることが多いが、厳密には草皮繊維4分類<大麻・亜麻=リネン・黄麻=ジュート・上述のカラムシ織>が狭義の麻織物とされる。
列島では、縄文の昔から生産されていたことが判明しており。鎌倉時代から江戸時代まで武士が着用する正式礼装である直垂・裃は、越後上布によって作られる。
古くから越後国の特産にして・海路を以て京・大阪の消費物資集積地に送られた。戦国期まで在京公家=三條西家が独占的に販売管理の権利を握った。
カラムシ織の殆ど<越後縮・小千谷縮などヨコ糸に強撚糸を使う、シボのある織物を含む>が、越後国・魚沼郡で生産された。
さて、魚沼郡の管轄だが、実は要約が難しい。
越後一国の知行は、幕藩時代を通じて分散かつ変転著しかった。
それでフォロウ・纏め・要約が難しいのだ。あえて大雑把に言えば幕府直轄のウエートが多いようだ?
魚沼郡は、天和元(1681)年より全郡が幕府領。更に享保9(1724)〜文化8(1811)の間、会津藩預かり地であった。
魚沼郡が会津に接して隣り合う位置にあるは、偶然でしかない。しかし高級衣料の全国的大産地の管理を任されることは、藩の徴税・財政面でおいしかったに違いない。
但し、預かる大名と持主たる幕府との間の勘定清算がどうであったか?不明ながら・・・
地域研究の近年の成果によれば、小千谷十日町・堀之内が産地中心。この深雪地帯で雪晒し(=オゾン漂白)をすることが、良品を産出する秘訣であり・集中生産されたと言う。
不足しがちな原料の青苧は、広く会津・米澤・最上の各藩領から集められた。小千谷商人が集荷したようで。その推定輸送ルートは、近隣でもあり・陸路荷駄と考えられる。
盛業・躍進著しかった魚沼のカラムシ織生産も、天明年間(1781〜89)に年間生産量20万反余のピークを迎え・以降幕末まで10数万反台で下降気味に推移した。
衰退の背景に、天保の改革<1841老中水野忠邦による奢侈禁止・貨幣改鋳。経済合理に反した統制は2年をまたず破綻、社会混乱のみを招いた>による経済撹乱や武家財政の窮乏化があった。
加えて、労働着として当時躍進し始めた木綿布との競合や幕末開国以降急速に輸出品の目玉となった生糸への傾斜生産も追い討ちをかけた。
十日町地区は、絹織物への転換を図り、振り袖産地として軟着陸を遂げたようだ。
以上、会津絡みの地域特産3品について触れた。麻織物は、製品マターにおいて厳密に言えば、会津の外の越後・魚沼郡だが。幕府預かり地として約90年ほど関与し・最盛期を招いており、それなりの評価があってよいであろう。
残るテーマは、コメ移送のみである。
解明は意想外に手間取った。数量的な解析を画策したが、空しかった。資料面の制約も厳しく、筆者の力量をもってすることに無理があった。
石高制は、秀吉の検地に始まり・幕藩期を通じて維持された。しかし、この”石”計算と輸送面で使われる「俵」との間には、何ら脈絡がなかった。
石高制は、大名秩序<軍役負荷基準・家格序列のベース>や百姓に対する課税根拠として、藩政期を通じ・長い間機能した。全国一律の公準であり、盤石のパラダイムであった。
しかし、現実面では、間もなく藩財政や農民経営の実態と多いに食い違う・単なる名目に堕した。
コメは難しい。
計量単位は、石(=公式単位)・俵(=容積単位)・斗・升(=容量単位)と。異なった要素の併存があった。
その間の換算率は、存在したが。地域(藩ごと、生産段階と輸送場面でも異なる)や時代によりまちまちであった。
全国統一が行われたのは明治以後であり・戦後の1951年「計量法」施行をもって1俵は60kg(=重量基準へ移行)で落着いた。
いよいよこれからが本題=会津藩のコメ輸送である。
結論のみ述べる。
まず、本領23万石と南山御蔵入領<幕府領預かり地。5.1〜5.5万石。会津圏域内の南側・接してある。名目のみ預かり、私領同様の扱いと幕府から申し渡された>の産米は、領内消費分を除き。江戸藩邸御用金や江戸詰め藩士扶持分など必要分が、阿賀野川に拠らずに江戸方面へ移送された。
次に、会津領の越後国・蒲原郡の産米は、阿賀野川を経由して新潟へ。同国・魚沼郡産米の到着を俟って一括して大阪へ送られた。
以上が結論である。
さてメイン産米の輸送ルートだが。下野街道で現・栃木県境を越え・阿久津河岸(現・さくら市氏家)〜鬼怒川で水上輸送〜久保田河岸(現・茨城県結城市)→積替して陸路を輸送→境河岸(現・猿島郡境町だが、いわゆる関宿付近)〜利根川・江戸川経由の水上輸送〜行徳河岸(現・千葉県・市川市)で積替して、陸路を江戸市中まで。
なお、下野街道は、会津側の呼名で。逆サイドでは会津街道と称した。会津街道は、西→中→東と2度もルート切換したが、これは地震と堰止湖出現(=自然災害が通行を障害)による換道であった。
その変遷過程には、踏込まないが。最後に使われた会津東街道<別名・原方街道とも>についてのみ少し触れる。先行の2街道は、若松からまっすぐ南下して陸路で阿久津河岸を指向したが。急斜面かつ細道で牛馬に頼れない峠道もあったらしい。
その点で最後に使われたルートは、若松から東に位置する白河に向かった。白河まで既存の白河街道(=佐渡金山ルートの部分路)を利用。
そこから南に下る原方街道は、正保2(1645)年初代藩主=保科正之が新たに開鑿した。
白河・宿〜氏家・宿(=既述の阿久津河岸で鬼怒川へ)間の都合10宿=を新たに設けた。
その狙いは、既存・奥州街道の混雑を避けるため、脇街道として物資搬送専用ルートの開設にあった。白河や二本松などの隣接藩米や最上からの紅花も通ったらしい。
因みに、名前の由来だが。那須高原地帯を往くから”原方”または”原”となったようだ。
その他に、米積街道・牛街道とも言ったらしい。
脱線だが、馬は人の乗用であって・物資輸送には使えなかった。
先行の2街道は、道幅が狭過ぎて。牛すらも使えなかったことを伺わせる新街道名だ。
では、新潟に集荷された藩米である。一部資料に5万俵とある。出典の明示もなく、俄に信じがたい。
ただ、当時既に大阪〜江戸間に「為替」ネットがあって、送金システムが確立していたから。人口重心の関西方面への海路輸送の方が、総合的に考えて・より合理的であったかもしれない。