もがみ川感走録 第3 港町・酒田

もがみ川は、最上川である。今日は第2節
例によって、端に立って、もう一方の端を考えてみる。
こっちの端は、河口である。
最上川日本海の接点に当る河口の街を酒田と言う。
日本列島有数の港である。
港すなわち川口である必要は無いが、酒田の場合は大河の海への注ぎ口でもあり。
内陸部への積替え・倉庫への保管・検数と課税など、輸送大動脈の結節点たる流通港において派生する関連業務を引受ける多くの業種を抱え、長く繁栄を続けている。
音の「さかた」であるが、はたしてどのような由来があるだろうか?
一見して些事、うまく説得できる自信はない。だが地名問題は筆者の拘り、素通りできない。
「た」は、”が”に同じ・場所を示す汎用語だ。
そして、津=戸に繋がる<タ行の同行通音>。
津=普通名詞は、1字1音の最小地名<三重県は固有名詞>。その意味は、港、湊である。
港=湊は音が「みなと」。音の中そのものに意味が含まれる。漢字=”水戸”を当替えすると一層意味がはっきりする。因みに茨城の県庁所在地は、”な”音が欠落した同語。
「みなと」の音たる「と」は、すなわち”戸”であることが。明らかになってもいる。
「と」とは、陸が終り・海が始まる場所を指す。
陸側に住む人は、戸までは自らの足を使ってゆくことが出来る。戸の向こうに行くには、船を持ち・航海術を備えた海人族の助けが要る。
よって港=湊=津=戸は、境界である。
残る「さか」だが、”酒”字は、当てただけ。酒が境界の地に無縁とは思わないが、十分条件に足りない。
「さか」系の地名を列挙する。寒河江・坂町(新潟県)・佐賀(佐賀県)・相模(さがみ旧国名。主に現・神奈川県)・盛(さかり=岩手県大船渡市。地名・駅名=JR・三陸鉄道南リアス線)などなど。
サ行音は、発音が難しいと言われる。歯切れよく抜ける音を出しにくい。
にもかかわらず、列挙地以外にも「さか」を語幹とする地名が多数存在する。それは、好印象に直結する意味を含む地名だからであろう。
「さか」の意味は、おそらく”見たまんま・そのままに素晴らしい”であろう。
意味がそうなる背景は、”花の桜”と同じである。サクラのサ音は、猿田彦に由来するらしい。
天然の良港であるもう1つの要素は、日和山のありようである。
日和山の持つ重要な意味は、クロフネ以降忘れられつつあるが。木造・無動力の帆船時代、日和山は港が持つ機能の中でも格別に重いウエートを担った。
船頭が果たすべき最大の重責は、早朝日和山に登山して。観天望気を行い、出港の可否を決断し・次の目的地までの安全航行を祈念し・実証することにあった。男の責任としては実に重いものがある
酒田の日和山は、港の直ぐ後背地にある。小高い丘だ。岸壁から徒歩で5分とかからない。しかも海面方向に視界を妨げるものはない。本邦随一とされる。優れた環境である。
酒田の日和山には、現在も3つほど神社があるが。山頂部に最も近い位置を占めるのは、日枝神社である。
日枝神社は、天台宗比叡山と同体である(ここでは帆船航走時代に立つ。当然に廃仏毀釈以前のこと)。
琵琶湖と本山たる比叡山の位置はごく近い・信仰の中核基幹を近江衆が担っていた。その近江衆の本拠は琵琶湖だが、日本海輸送を独擅場として支配していた。流通の一貫性から生じた海上権益であろう。京・大阪に繋がる端を握っていたのが、近江衆であった。
以上からして。酒田日和山における日枝神社の占めるポジションは、リーズナブルといえよう。
このように酒田と水運に関する話題は、盛沢山だ。ここでは紙数の制約もあり、タイトルのみを掲げ多く踏込まないようにしたい。
まず、36人衆の伝承である。
市内にある名刹曹洞宗泉流寺に祀られる徳尼公像に因む話題である。奥州藤原氏源頼朝に攻め落された際、平泉の地から逃れた藤原家の高貴な女人を守護し流浪した武士団が、後世の酒田町衆の主柱を形作ったとする伝承である。
大筋においてほぼ史実であろう。
金売吉次が実在したかは不明だが。平安京が置かれた近畿の地と平泉との間の人的・物資的交易は、陸路を経ること少なく。海と川との連結ルートを基幹経路としていた。
内陸は分水嶺付近で、手前の川と峠の向こうにある川とを荷駄で繋いだ。最も短絡する峠を超える馬と人足の苦労は、想像のとおりだが。全体移動距離からすると極めて短かい。
因みに想定されるルートは下記のとおり
平泉〜衣川〜北上川<柳津付近・涌谷付近の間は旧北上川となる>〜江合川〜中山峠<=陸路>〜小国川〜最上川〜酒田港=日本海敦賀港<=陸路で琵琶湖北岸へ>〜琵琶湖=大津港〜瀬田・宇治・淀の河川を経て〜京ないし大阪へ至るもの。但し、このルートは机上想定であり、未だ実証未了。
もちろん奥州藤原氏の交易は、国外にも及んでいた。酒田港から対岸の大陸や半島に到達可能。
奥州藤原氏による実効支配地に、酒田など河川流域周辺も含まれる。しかし鎌倉政権によって滅ぼされる以前の古い記録は殆ど失われたか?それすら推定の域を出ない。
鎌倉政権による奥州藤原氏打倒の波(1189)は、遠い酒田港にも及んだことであろう。激甚な破壊を受けた可能性が高い。筆者はそう推定する
ヒントはある、三津七湊の中に酒田港が出現しない。
三津七湊(さんしん・しちそう。列島の中で当時よく知られた10の大きな港)は、廻船式目の中に出現する鎌倉時代の十大港である。
廻船式目は、日本海運史上 最古の史料<1223年成立の海運法令集>とされる。
十大港のうち7つが、日本海側に立地する。これは文化発信域である大陸・半島との位置からリーズナブルだが。不思議な事に、酒田・新潟・敦賀・下関など主要港の名前が出てこない。
土崎湊から直江津間の空白が長過ぎる。
同じく三国湊から博多の間もまた空白だ。
他は知らず酒田港のみは、一時的に奥州藤原氏と同じ命運を辿ったものであろう。
資料の不足を補う伝承が・港町酒田を再興したのが、36人衆である。
海運に従事する者は、有徳のものと呼ばれ。属地性の高い・地域農業者とは、異質の存在とされる傾向にあった。
自律・自存の意気が強く、アジールの世界に自らを置きたがる・移動する民である。
36人衆の伝承は、共同自治界=酒田港町が確立したことを示している。