おもう川の記 No.25 阿賀野川と北前船

阿賀野川編の続編である。
直前の稿で飯豊山を採上げたが、福島・山形・新潟3県に跨がる長大な連峰であるし。阿賀野川の有力水源でもあるから、阿賀野川編に含めておさまりがついたと思う。
この阿賀野川編もそろそろ終盤である。
そこで、今日から阿賀野川会津藩の関係を述べる。その前段として幕藩中期から明治末年まで全国的物資流通網のうち、阿賀野川と直接連結する日本海の物流を担った北前船のことを採上げる。
北前船が結ぶ会津藩と他の経済圏との流通だが、信憑性維持の必要から、時代設定と空間域の範囲をまず限定しておく。
北前船の時代枠を限ると。
その始まりは、造船工学における弁才船の出現=18世紀中葉<石井謙司著「和船」による>以降となる。しかもこの時期は、列島規模の全国経済が成立する時期とほぼ重なる。
それ以前にも内航水運事業は もちろん存在した。古くは、律令時代における租米や庸・調<ともに従たる租税>としての地域特産物の移送である。しかし、これ等はいわゆる官物輸送であって、全国規模であっても経済行為と捉えがたい。
ここであえて触れた意味は、近江衆の存在を印象づけたいからだ。
近江衆は、官物輸送のうち、日本海ルート全域を実効支配していた。通年輸送ニーズの乏しい官物輸送に、どれだけのメリットがあるか?理解しがたいが。
早い時期に彼らは、日本海輸送をテリトリーとしておさえた。
ここでテリトリーの範囲を説明すると。海路の始・終点は、敦賀港。対極の始・終点は、逐次北進し・最遠地が伝・出羽国宮浦港(=現・山形県酒田市宮海を仮の比定地とする)となる。
この近江衆の日本海水運独占は、北前船隆盛の直前まで続いたと言われる。
ここで少し踏込み過ぎだが、テリトリーを失うに至った背景を考察しておこう。
あげて流通の一貫性に関わる。つまり・海路の始・終点たる敦賀港が、最終消費地でも生産における末端集荷地でもないことに起因する。
敦賀(または小浜)から陸送された移送物は、琵琶湖の北岸の港から再び水上輸送され瀬田川宇治川・淀川を通じて(また、小浜〜京の間は琵琶湖湖上輸送なしの陸送経由にて)京・大阪に達した。
北前船の時代を通じて日本海流通の最末端(=始・終点)は、人口重心とも言うべき京・大阪であった。
日本海から近江衆を駆逐した北前船だが、時代の終りが来た。1900年頃と言われる。
北前船が消えた背景はさまざまだが、主なものを掲げておく
○ クロブネに敗退した。
  帆船航行特有の非・計画性(=入港入荷の予定が立たない)においてクロブネ(=船体構造が鋼製で・動力機関を備えた船)の計画運航に太刀打ちできなかった
○ いわゆる文明開化ムードが退場を促した。
  ここで言う文明開化ムードとは、電気による通信=電報、同じく電話。それに鉄道のことだが。文明開化により導入された新鋭システムの一群である。
どのシステムも概ね東京〜横浜間から運用が始まり、1880〜90の間に、大都市相互間・県庁所在地相互間と逐次全国配備が進められ・国策事業として重点投資が行われた。
  北前船の商法に、「買い積み」なるものがある。別名「動く総合商社」とも言われ、いわゆる受託貨物運送専業と異なる機能として、寄港地で適宜に売・買を繰返した。
また地域により北前船を”バイ船”と呼ぶが、その背景を探ると。1回の航海で、初期投資費用が償還でき。以後1航海ごとに倍額儲かることからだと言う。
北前船の「買い積み」が高収益であった背景に、商品情報の不足や情報伝達の遅さと言う幕政期=海禁時代の閉鎖体制が寄与したと考えられる。
開国=自由貿易体制への移行と上掲の通信・運輸システムの全国展開の進展にともない情報の地域ギャップが解消され、特に商品価格情報の共有化が迅速に進んだため。「買い積み」のメリットが急速に失われたものと考えたい。
○ 河川舟航の急な衰退。
  北前船の積載物品は、主に2つあった。
第1は、主に「買い積み」の対象である国内消費物資である。主なものは、北海道に向かうコメ・藁製の梱包用資材。東北地方に卸された古着類<世田谷ボロ市や京都産織物が川上・対する川下に秋田県羽後町の西馬音内盆踊りに見る”端縫・はぬい。端切れ布片を接ぎ合わせて踊り衣装にする”などに代表される下りもの>。全国を商圏とする食用塩・鉄地金・砂糖・綿・日用品など。
北海道から運び出された昆布・身欠きニシン・魚肥<ニシン〆粕>などの海産物。関西に運ばれたものとして、換金作物の代表たるコメ。地域特産物の代表たる紅花・青苧など。
第2は、いわゆる「長崎俵物」と呼ばれた北海道産の海産物である。ほぼ幕政期を通じて貿易事業は、幕府が独占し。主な輸出物は当初は金・銀・銅の地金で、後に干鮑(ほし・あわび)・煎海鼠(いりこ)・昆布などが主役となった。
 いつの時代もそうだが、物資輸送は幹線に当たる大血管と支線に当たる中・小血管との組合わせで成立っている。
北前船が担った役割は、日本海における幹線輸送であり。主な寄港地=主要河川の河口にある重点港町、酒田・新潟・富山・三国などで、河川舟航が担う支線流通ネットワークに連結していた。
しかし、明治新政により列島全域に列島改造の構想が打出され、既存のインフラ環境は根本から否定され・日本固有の生活感覚は根底から突き崩される事態となった。
列島改造事業のうち、ここでは下記の2つに絞り込んだ。
どちらの国策事業も結果として、既存の・機能していた河川舟運を徹底壊滅させた。
第1は、河川改修に関する根本的思想の変改である。
1896河川法を制定し、河川改修を国の直轄事業に据えた。有史以来の「低水計画」から「高水計画」へと、改修思想の根本的改変を行なった。
低水も高水も聞き馴れないコトバ、水文学の素人たる筆者にも耳新しい。
行きがかりから簡略に用語説明するが、
「低水計画」は有史以来採用して来た改修思想。舟運のための航路維持を河川改修工事の中核に据え、河道・河岸の整備や河床の浚渫などを行う。
対する「高水計画」は、100年確率降雨<言わば想定される最大降雨量のこと>による洪水を河道内に収め・周辺土地に氾濫させないことを主眼とする・新導入の改修思想。築堤・蛇行部の直線化<ショートカット化>・放水路開鑿などを行うもの。後にダム・遊水池・調整池などの調節工事の方策を追加した。
第2は、鉄道事業への傾斜である。
明治初年に列島全域に鉄道を敷設する構想が打出され、日露戦争後の1906年に鉄道国有化法が成立した。
その後財政逼迫や敗戦などにより、民鉄化路線への転換など紆余曲折をみた。しかし、昨今の新幹線強行運用政策の底流を流れる大土建(=産官癒着)複合体による列島改造妄想は、依然根強いものがあると言わざるを得ない。
さて、筆者のつたない調査力をもってしても、「高水計画」河川思想を持つ国は日本以外に見当たらないようだ。欧州も北米も運河舟運は維持されている。
同じく新幹線フィーバーもまたしかりで、並ぶものない列島における鉄路は独擅場状態だ。
以上、支線流通を根本から壊滅させた=河川舟運壊滅を招いた国策2つを紹介した。
河川思想の根本的改変は、現在進行形の列島改造事業と直結しており。決して過去のことではない。だが、この重大な意義を持つ思想改変が唐突に行われた背景に、新興事業たる鉄道建設を側面的に支援するために。世界の常識でもある河川舟運を犠牲にする狙いがあったような気がしないでもない。