おもう川の記 No.23 日橋川の野口英世

川面を眺めてもの思うシリーズ、阿賀野川の上流・支流である日橋川の続編。
今日は日橋川に因む人物を語る・人物概伝の節である。
野口英世(1876〜1928 細菌学)は、猪苗代町に生まれた。
会津の地に生まれ・貧困の中で育ち・幼児期の火傷など。多くのハンディを克服して、医師となり・単身渡米して・後に世界的に知られる細菌学者となり・ノーベル賞候補として複数回囁かれた。
渡米後1度しか帰国せず・派遣されて赴任したアフリカの地で非業の死を遂げた医療研究者である。
彼の死に至る経緯は、聖人と呼ばれたシュヴァイツアーを彷彿とさせる。
1900年にS.フレクスナーを頼って渡米し、彼の地に職を得て以来。帰国したのは1915年ただ1度であり、ロックフェラー医学研究所から派遣されて。デンマークエクアドル・メキシコ・ペルー・ガーナと研究場所を移して、1928ガーナの首都アクラで黄熱病に感染して病死した<享年51歳>。アメリカ現地で結婚したが嗣子はなかった。
猪苗代町にある野口英世記念館を、筆者はたまたま複数回訪問している。
権力サイドの評価は、顕彰さるべき業績・お札の肖像にもなる=立志伝中の偉人とする見解であろうが・・・・今日的な光の当て方や当てる部位は、人それぞれであってよい。
筆者は、生物学者福岡伸一の著書たる「生物と無生物のあいだ」に書いてある”野口英世の業績”を垣間みて<後述する>、なるほどさもありなんと思った。
まず国内で彼が得た顕彰と、それがついて回る地位・肩書の類いを掲げる。
1911 京都帝国大学から医学博士号を贈られる。
1914 東京帝国大学から理学博士号を贈られる。
1915 帝国学士院・恩賜賞を授与される。
明治人を語るキャッチフレーズの1つである”立身出世”なる決まり文句に照らしても、学者・研究者としての領域におけるまず不動の金字塔と言えよう。
次に、上掲著書を抜書き引用して、国外における略歴と業績に少し踏込むとしよう。
ロックフェラー医学研究所は、ニューヨークにあり。20世紀初めロックフェラー財団により設立された。最初のファウンダーとして研究所の立上げに寄与したのは、S.フレクスナーである。赤痢菌の単離に成功し、米国における近代基礎医学の父と呼ばれた大物である。
この大物との奇妙な出逢い<後述する>が、野口の米国におけるスタートが殊の外順調に運んだひとつの背景であったかもしれない。
ロックフェラー医学研究所は、今はロックフェラー大学となっており。上掲書の著者=福岡伸一が1980年代の終り頃に一時研究員として在籍した。
従って、福岡からすれば野口は、約50年の時間差はあるものの・同じロックフェラーで・国籍も同じ先輩研究者に当る。
ロックフェラーに23年間も在籍した野口の研究業績は、梅毒・ポリオ・狂犬病・黄熱病と盛沢山かつ華々しいとされるが。彼の死後50年経過して包括的再評価が実施されて、その殆どが今日的に意味をなさない研究として否定されていると言う。
南ア出身のマックス・タイラーが、1951ノーベル・医学賞を受賞した。
黄熱病ウイルスの発見(=1930)とその後の黄熱病ワクチンの開発・完成の業績が評価されたものである。
ウイルスの存在が、予期された時期は何時の事だろうか?門外漢の筆者には解明困難な課題だが。
野口が存命した時代は、細菌・微生物を目視する光学顕微鏡の時代であった。
ウイルスなどより微小なものを見る事ができる電子顕微鏡の出現は、彼の死後である。
よって黄熱病ウイルスを野口が、目視することはありえない。
以上をもってほぼ尽きるが、筆者が1つだけ付け加えるとしよう。
たしかに野口英世の名は、蛇毒の研究報告に残された。しかし、蛇毒研究は、ミッチェル博士父子が生涯を賭けた2代に亘る業績であり、共同研究者として単に名を連ねることが許されただけらしい。そこに至るまでの込入った事情は不明だが、いささか複雑である。
見えてないものを見たとする野口の背景に何があったか?それを現時点で明らかにする事は、まず無理だが。想像たくましく推測する事はできよう。
米国医学界の大物=S.フレクスナーが、1899年訪日した際。野口は伝染病研究所<所長が北里柴三郎>からの通訳として案内役を勤めた。
野口は翌1900年渡米した。前年の出逢いを強引に利用したかもしれない
フレクスナーの庇護を受けるようにして・ロックフェラーにポストを得たし。そのチャンスを手がかりにして、23年間もの長い間在籍し続けたのであろう。
しかし、そのフレクスナーとの奇縁が、野口を異様に駆立て・精神的に追詰めたかもしれない。彼の地でも彼は評判のプレイ・ボーイにしてヘヴィー・ドリンカーであったらしい。
まだある。経歴詐称と称号詐称である。
野口は、米国到着直後フレクスナーに対して、経歴書を提出した。
その後フレクスナーは上述したようにロックフェラー設立に参画したので、ロックフェラーが保管する公式記録として残っているらしい。
野口の申告によれば、東京医科大学を卒業したことになっているが。そもそもそんな名称の大学は存在しない。仮に後世に?存在したとしても・彼は医学系のアカデミズムに在籍した事は一度もないから・勿論卒業もまたあり得ない。
東京医科大学から医学博士の称号を得た旨申告するが、その事実もまたない。
この経歴詐称と称号詐称を、現時点で解明することもまた難しい。
背景を強引に憶測してみよう。
まず、”翻訳のマジックと壁”が指摘されよう。ドクターは医師の事でもあるし・博士をも指す。
次に、彼は国が実施する医師試験をクリアーして医師の資格を得ている。
ほぼ独学で獲得したわけだから、努力と天才ぶりに驚ろく。しかし、それは開業医の道である。
医学研究者にふさわしい条件を欠いている。たとえ日米のどちらであっても、道は開けないに違いない。
幼児期の火傷と開業医への道とが、どう重なるか?
これは当人にのみ帰属する課題であって、外部から触れにくい。
当時は患者を打診することが一般的であったようだから、かなり重いハンディであったかもしれないが、一概に決められない。
先にフレクスナーの通訳を勤め日本国内を案内したと書いたが、野口の学歴からして、これもまた彼の天才ぶりを示しているものと考えたい。
立身出世は、文明開化から概ね戦時までひとつの時代を画したパラダイムであり・”国と個人”とを一体的に重ねて画一化する魔法の文句であった。
だがしかし、付焼刃とでも言うべき・時代的一過性ブームに過ぎず、背景の浅さから来る負の要素または拙速的な勘違いもまた付き纏った。
その多くは、仕事と地位・肩書の間に生ずるズレまたはギャップである。
野口の仕事つまり正面業務は、医学分野の研究=細菌学であり。しかも活動の場は、遠い海外の地であった。
彼のような研究職の場合は、その成果に対する当人の思い込みと周囲の評価との兼ね合いに加えて。国際的科学基準による評価や後世の実験追試的検証による成果の否定など・・・クリアーすべき課題は格別多い。
言うまでもない事だが、医学は人体を対象とし・人命に直結する研究であるから。病原菌の確定や新薬開発には、動物実験など迂回的な手法を駆使して・気長に構えつつ・他者とのスピード競争に負けて二番煎じとならない備えなど。
実にもどかしく、しかも外部者には理解しにくいハードルが、多々ありそうだ。
野口のした事、発表当時は華々しく受けとめられながら・後日霧のごとく消えた。中味が乏しく・詰めを欠いた。
その責めは、彼のみが受けるべきでない。
文明開化なる標語に踊った時代に広く共有した世界観であったかもしれない。
何をしたか・何を為さなかったかよりも、何になったか(=地位や肩書)をまず先に論ずる社会風潮であったかもしれない。
以上をもって今日の主題は、尽きている。
余談を述べよう。
野口の肖像は、現在流通する日本銀行券に印刷されている。E号千円券だが、2004.11.1日付をもって発行された。
因みに、前任肖像を一覧しておこう。但し、発行日の逆順=遡及時系列
  〔 氏名 〕  〔 券面の呼名 〕  〔 発行の年月日 〕
   夏目漱石     D号千円券      1984.11.1
伊藤博文     C号千円券      1963.11.1
聖徳太子     B号千円券      1950.1.7
なお、 聖徳太子を描くB号千円券は、発行時における最高額紙幣である。その後1957.11.1日に 聖徳太子を描いたC号五千円券が発行され・更に聖徳太子を描くC号壱萬円券が1958.12.1日に発行されて、それぞれ最高額紙幣となっている。
余談の脱線だが、聖徳太子は実在が疑わしい・言わば仮想された人物像とする見解が主流であるが、彼が建立したと言われる四天王寺に古代の外交窓口が置かれた。
樋口一葉を除いて、ほぼ全員が、海外に留学したか・活動の場が外交など海外との接触に身を置いている。
それは何を意味するのだろうか?
世俗に言われる”外交音痴の国民性”と重なるだろうか?

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