おもう川の記 No.22 日橋川の景観

川面を眺める散策の記録、今日は前稿に引続き阿賀野川の上流=日橋川の後段である。
日橋川は、猪苗代湖から流れ出し・会津盆地の真ん中辺で本流=阿賀川に注ぐ。
極めて流路の短い川だが、支流としての重みは意想外であるようだ。
その重みを語るには、まず猪苗代湖の概要を知る必要がある。
湖水面積103.9平方kmは、琵琶湖<滋賀県 約670平方km>・霞ケ浦<茨城と千葉の2県を跨ぐ 約220平方km>・サロマ湖<北海道オホーツク海岸 約152平方km>に次いで,列島湖沼ランク第4位の大きさである。
南東北会津の山中に何故?このような大きな湖があるのか?と、疑問もある。
この湖の存在と会津なる地名(=人との出逢いに因む・地名由来)との間には、深い相互関係があると考えたい。
日本海岸から太平洋岸に日本列島を陸路経由で抜けよう、と考えた人は古代から存在した。
当然山越えは避けられないが、垂直移動を最小とするルート適地が選ばれる。
本州内でもごく少なく,片手の指に満たない数であろう。
この磐越鞍部もその1つである。
磐越鞍部なる耳慣れない言葉は、この際捉われるべくもないが。まず日本海で、阿賀野川河口に取付き。川沿いに、川が造った自然低地を伝うことで。おのずから会津盆地の中に導かれる。
因みに会津の入口に当る峠の名は、鳥井峠<国道49号 標高230m 福島・新潟県境>である。
会津まで来てから太平洋に抜けるルートは、結論を言うと。中山峠<国道49号 標高525m 耶麻郡猪苗代町郡山市>越えである。
中山峠は、列島脊梁山脈が南北に走る高山帯を東西に貫く・いわゆる鞍部地形で・会津盆地と中通りを結ぶ要路である。
自然河川は通っていないので、古代にこの地を最初に通過した。ルート開発者たるパイオニアは、少しばかりリスクを感じたに違いない。
ルート・パイオニアは、おそらく猪苗代湖畔から遠望して、中山峠を選んだであろう。
中山峠と猪苗代湖東岸とは、およそ4kmの近距離である。
余談だが、これだけ標高の低い中央分水界は、他にないのではないだろうか?
ここまで書いて来て壊れかけの記憶中枢が、もじもじしている。念のため、蔵書を点検してみた。
中公新書「日本の米」で、著者の富山和子が、書いている。
列島中最も低い中央分水界は、その標高が100mに満たない。そのポイント地点は、兵庫県氷上町にある分水橋。国道175&176号の交差点付近とか・・・
分水に因む以上は、やはり川筋に話題を絡めるべきであろう。
気を取り直して書くとこうだ。
由良川は、丹後半島の東の付け根=天橋立で名高い宮津市若狭湾きっての要港=舞鶴市との間を流れる。古来 歌枕で有名な川、中国山脈から日本海へ流れ出ている。
由良川は2度ほどしか通過していないが、分水嶺がこれほど低地を通ると知って。ガソリン高騰の昨今、山陽サイドへの山越えコースとして是非再考・採用すべきである。
由良川筋に沿って上流に向かうと、標高100mに達することなく楽々?”分水橋”を通過する。
その橋を渡った途端,何と歩きが楽になり・川の流れも下りに転じていることに気がつく。そのまま川沿いに下ると、川の名は加古川となって、河口地点で大阪湾に注ぐ。
このルートは日本海〜瀬戸内海の間だが、これも違わず数少ない本州越え・低地陸路コースである。
さて、本題たる中山峠に戻ろう。
今では、地表に見えない人工河川が造られている。安積疏水である。
猪苗代湖の水は、湖畔上戸の取入口<湖面標高514m>からトンネルをもって中山峠<標高525m>付近を経由して太平洋側に運ばれ・安積農地を灌漑した後、阿武隈川に流れ落ちる。
分水界を超えて広く潤すほどの猪苗代湖の豊富な水は、どこから来るのだろうか?
磐梯山<山頂標高1819m 猪苗代町磐梯町北塩原村に跨がる 那須火山系に属す>
の山頂までは、直線距離にして猪苗代湖からおよそ5km内外に過ぎない。
地学的研究によれば、磐梯山の造山期は約3万年前・猪苗代湖の形成期は約2万年前だと言う。
この磐梯山に降る雨のうち北斜面と東斜面を下る水が、猪苗代湖に注ぐ川のうちで最大の川=長瀬川を通って湖水となる。
ここで長瀬川の源流を総括して眺めると、上述の磐梯山系に加えて・吾妻連峰から土湯峠を経て川桁山<山頂標高1413m 猪苗代町 >までの・いわゆる列島脊梁山脈の南側斜面〜西向き斜面を含んでいる。これ等の山々は、磐梯山に対面し・2方向から磐梯山を囲い込んでいる。
要約すれば、猪苗代湖の水量を大きくしているのは、何と言っても湖面3方向を囲む列島脊梁山脈から流れ出す雨水である。
やはり長瀬川となれば、中流域にある3湖形成の悲劇に触れないわけにはいかない。
有名な1888(明治21)年の磐梯山噴火である。大岩屑流が押出して流域住民から461人の死者を出した。
その時長瀬川が堰止められて、桧原・小野川・秋元の3湖がつくられている。
いささか余談だが。噴火と言うものの、この時マグマ火道は更新されておらず。1082年もの長い間地中に蓄積された水蒸気が2時間程度のごく短時間に一気に噴出・爆発した。極めて珍しい自然災害現象だと言う。磐梯式噴火と命名され地質学的にも希な事象であるようだ。
この珍しい火山性の水蒸気爆発は、有史以来2度あった。
1888年から1082年前にあたる806(大同元)年の噴火についても、被災現地には明確な記憶が刻まれている。
いわゆる高僧「徳一」の布教活動である。
彼の名は、同時代の高名な宗教家である空海最澄が残した文献の中に頻出すると言う。当時から有名な論争家であったらしい。
最果ての地とも言うべき陸奥で起った大規模噴火の悲惨さは、遠く離れた平安京にも届き。奈良〜平安にかけて活躍した法相宗の徳一(=得一とも書く)が、会津に赴き布教活動しつつ・被災民の安寧を図る一大宗教事業が展開されたようである。
会津の地では、恵日寺<山号磐梯山、807徳一開基の伝承あり 在・磐梯町>と勝常寺弘仁年間=810〜24徳一開基の伝承あり 在・河沼郡湯川村>が創建されている。
平安初期の優れた仏像が、この会津の地に多数存在すると聞く。
その言われは、徳一に帰せられるべきであり。他に創立寺院30か寺・著書17点などの言伝えもあるなど、表現は不穏当ながら災い転じて福を得た?観なしとしない。
会津が奥地の2大仏教センターとして、平泉と並び高い評価を得るが。その契機を、”宝の山”が招き寄せたと書いては、これまた不穏当の誹りを免れないであろうか?
江戸初期の怪僧・天海を育んだ土壌もまたここにあったと言えよう。
会津を代表する会津人たる保科正之を祀る土津神社<在・猪苗代町>も、磐梯山猪苗代湖岸との間=北山南水の南麓=聖地に置かれている。

日本の米―環境と文化はかく作られた (中公新書)

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