おもう川の記 No.20 大川と保科正之=第2節

川面を眺める散策シリーズ。阿賀野川の上流・本流たる阿賀川=地域呼称・大川にまつわる人物の概伝を探る巻。”大川”の2人目=保科正之についての続編である。
前々節で採上げた南光坊天海は、高田に生を受けた会津人だが。
保科正之(1611〜72)は、江戸に生まれて、初代会津松平家の藩主として入部した。
筆者は、彼が最も会津人らしく・会津気質を備えた人物であると、考えている。
幕府公伝によれば、第2代将軍・徳川秀忠には3人の男子がいたことになる。
長子・嫡男・3代将軍たる家光の末弟に当る”正之”は、母筋にあたる”江”<=前将軍の継室>の性格?に起因する余波のせいか? 複雑骨折とも呼ぶべき生まれ・育ちを辿った。
正之の存在は、秀忠の詳細な?指図により、”江”や大奥に対して徹底的に秘密とされたようだ。
彼は6・7歳の頃、長野・高遠3万石保科正光の養嗣子となって,生地の江戸を離れた。
私見だが、幕臣の中に甲・信を縁故地とする旧武田系騎馬軍団を母体とするグループがあった。
正之の養親は、その系列に属する大名であったようだ。
序でに述べる。甲・信グループは、核心・最強の幕臣グループとは言いがたい。
幕政を動かす幕閣の中核たる老中・大老を送り出す東海地区縁故地集団に次ぐ第2のグループと認識しておくべきだろう。
寛永8(1631) 養親・正光の死にともない、高遠藩主となる。
寛永13(1636) 加増され、出羽・山形藩20万石へ転封となる。
以下は私見・脱線だが、第3代将軍(在任1623〜51)徳川家光の治世 年号では寛永年間(1624〜45)をもって、幕府の基本路線が大きく切替ったと考えたい。
徳川幕府の政治を概観すると、2代までが創業期・3代から安定推移期と括れるであろう。
そのエヴィデンスとして、この期の主な物故者を掲げておこう。
近親の順とし、括弧内は〔家光目線の続柄・享年〕である
 秀忠1632〔父・53歳〕
  ”江”1626〔公伝の母・53歳〕
 忠長1632〔実弟・28歳〕
 春日局1643〔公伝の乳母・64歳〕=斎藤福。裏史料では家光の生母<家康のご落胤
 土井利勝1644〔老中・秀忠の側近・71歳〕=正之を保科家に託す。家康の従兄弟<母系>
 金地院崇伝1633〔側近/黒衣の宰相・64歳〕=家康以来3代続く将軍ブレーン
      幕政の大黒柱となる3つの法度<公家・武家・諸寺諸宗>を起草
 南光坊天海1643〔側近/黒衣の宰相・107歳〕=家康以来3代続く将軍ブレーン
      会津の高田に生まれ、裏史料では明智光秀と同一人物とするものあり
 本多正純1637〔家康の側近・73歳〕=在駿府家康のブレーン。
      後の宇都宮藩主。先に俗説・吊天井事件で失脚
以上8名が、必須のキャストだが。序でに人気キャストを紹介しておくとしよう。
戦国から江戸初期までに勇名を馳せた藤堂高虎伊達政宗寛永年中に死去している。
時間の経過が、主役を換えて。自ずから、人の世は変るものらしい
< 幕府創業期 >
新しい秩序を定め・根付かせるために、厳格な新法の制定と精密な運用が行われた。新たな秩序を定着させ・戦国の戦乱を再燃させまいとする強い覚悟が、幕閣の中に充満していた。
< 安定推移期 >
新秩序が定着し始め・世相が安定し・幕府の基盤が盤石になるにともなって、
創業期における厳正・貫徹の武断主義から温情・徳治の文化主義へと、幕閣は傾きはじめる。
その世情交替をスムーズに進めるには、ルールを構想・起案した当事者が不在になる必要もあった。
該当者は、上記物故者のうちの土井・本多・崇伝の3名。特に崇伝は、3法度<公家・武家・諸寺諸宗を取締る法令>の事実上の起草者であったろう。
崇伝と並んでもう一人の黒衣の宰相とされた天海は、長生したが・見事な変身を遂げ、急と緩の両面の2世を生きた偉才でもあった。
さて、本題に戻ろう。
正之に対する異例の加増は、長兄による・言わば粋な計らいだが。
幕閣は寛容・温情の徳治主義政治移行の最初の適用例として、複雑骨折からの救済対象にふさわしい”将軍の弟”を選んだかもしれない。
その複雑骨折もの=末弟の存在を長兄が知るに致った経緯は、前節でも触れた。
落語にある「目黒のさんま」的情景は、さまざまな解釈が可能である。
家光は、大奥に育った忠長を冷遇し・早々に処刑=寛永9(1632)=した。が、それで身辺寂しくなり・血筋の細るのを畏れたか? 大奥の外で育ち・彗星のごとく現れた末弟の方は、反対にいたく厚遇した。でっちあげられた情景談の匂いがする。
”目黒”もまた、いろいろに考えられる。
地名に拘らず、乗馬訓練または鷹狩りに因む武蔵野へ通う経路地全般と捉えるべきであろう。
時の将軍に非公式ルートで、隠された末弟の情報を伝えた仏僧は、武蔵の国に何かと縁の深い天海であったかもしれない。
天海は初代家康以来の側近ブレーンで、江戸城内にも出入りしていた。
”目黒”は、非公式を印象づける代名詞の匂いがする。
寛永20(1643)またも加増され、会津23万石へ転封となる。
ここから誰もが知る存在ながら・律儀な振舞をする・将軍の弟に相応しい処遇へと転じた。
家名も松平姓を勧められ・家格も後に親藩・御一門とされたが、正之は固辞し・終世謙虚に徹し・保科の名乗りを続けた。
以下は私見だが、会津転封は、天海の働きかけであったかもしれない。
天海はその正之会津入部の年に亡くなっているが、幕閣に向かって遺戒的に進言した可能性なしとしない。
更なる脱線だが。奇しくも同じ年に、春日局も亡くなっている。
天海と春日局とを繋ぐキィーは、明智光秀である。
上述したように春日局もまた複雑不可解な役割を果たした・「時代の人」であった。
本名が斎藤福。父・斎藤利三は、光秀の家老であった。
春日局の出自が明智光秀に連なる以上、ほぼ同時期の大奥にいた”江”との確執は避けられない。
伯父・織田信長を殺めた本能寺の変の主役を勤めた家老の娘が、後世”江”の長男の乳母となった。
これもまた、複雑骨折の部類である。
徳川幕閣は、3代将軍となるキィー・パースンの養育役に。あえて何故?その踏込むような人選をしたのだろうか?不可解である。
徳川の家に秘められた戦略があったか?
”江”の血筋、それは前政権の一族にして・上流筋の家系に連なる織田・豊臣の血統だが。
その重い存在感を薄めるべく画策したのだろうか?
光秀を彷彿させる斎藤福は、その対抗馬たりえるか? 天海はカゲで糸を引いたか?
光秀が織田の家で果たした役割を述べてみよう。
彼は、室町将軍・足利義昭の臣下から織田家に転じた。その経歴から京都の公家吉田家とも親しく、対朝廷工作・儀式儀礼がらみの外交担当。安土城時代には近江・坂本城主であった。
時間軸を織田・豊臣・徳川の3者が出会った頃に巻き戻せば、光秀の立場は、田舎大名連中から頭1つ突き抜けた・将軍家直属の・都会エリートであった。
家系の古さと律令官職の高さを求めて京都に出て・天下に号令を下すことが、戦国期のパラダイムであり・行動原理であったから。光秀の経歴は貴重であった。
以上が保科正之・豊臣”江”・斎藤福の3者を巡る複雑骨折・裏事情だが、少しほぐれましたかな?
いよいよもって本題に戻り、本稿を締め括ろう
慶安4(1651) 家光は正之を、死の床に呼び・後事を託した。
家光死後、第4代将軍(在任1651〜80)・家綱(いえつな 1641〜80)の後見役として、幕府政治に参画した。
主な政策は、末期養子禁令の運用緩和、大名証人制度の廃止、殉死禁令の施行など。
丸橋忠也・由井正雪などによる倒幕行動を未遂で切抜けたことも挙げておこう。
正之が長兄・家光の遺言を重大事と受けとめ・生涯の最重要事に据えた。
そのことは、下記の2点に集約される。
会津の主権者を兼ねながら、藩主在任の31年間を通じて僅か5回(当然に滞在期間は5年に達しない)しか在藩していない。・・・・若松市立図書館より情報提供を受けました
寛文8(1668) 会津家訓15箇条を定めた。
松平家の使命を徳川宗家の守護に置き・自家存続よりも重い課題に据えた。
会津人気質の根底にあるものの1つに、この”他者奉仕の精神”があるかもしれない。
寛文12(1672) 生地である江戸の藩邸で亡くなった<享年61歳>
実直・清廉な生涯であった。土津(はにつ)神社<在・福島県耶麻郡猪苗代町>を建て・神式により祀られた。

保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫)

保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫)