おもう川の記 No.19 大川と保科正之=第1節

河口酒田で日本海に注ぐ最上川の川面を眺めていて、思いついたこのシリーズだが・・・
何故か?日本海沿岸を南に下り。昨今新潟県まで達し、新潟市を河口とする阿賀野川辺をウロウロしている。
今日は、その上流たる本流・阿賀川の続編である。
会津盆地の中心を流れ、地元では”大川”と愛唱される。
その大川に因む人物として2人目たる「保科正之」の概伝を述べることとしたい。
まず、大川との関係である。
初代の藩主・大名として会津に入部。後に会津松平となり・家格を改める事態を招いた人物、会津との地縁である。
次に、幕府政治において果たした役割である。
徳川幕府の開創初期、多くの範たる先例を拓いたこと。それが筆者が語る彼の主な業績だが、その参画の仕方は、あくまでも異例かつ変則的であった。
徳川の政治を担う機構は、将軍と幕閣だが。合議体の老中・若年寄に・念のため一部の奉行職位者と一部の将軍側用人職位者を含めても、保科正之を幕閣の一員とは認めがたい。
それが、異例・変則的存在とした背景の1つである。
地方の藩主が、地域主権遂行役を担いつつ・同時に中央幕閣を兼務することは、往々通例のスキームであったことは言うまでもない。
最も高く評価されるべき業績は、大名政策である。大名家の存続を容易にする温情ある措置を彼は拓いたが。そのことが江戸時代を通じて内なる平和を招き寄せ・長く続かせ。徳川政権の長期安定化に寄与した。
第3は、藩祖として彼が会津人に課した役割である。
特筆すべきは宗家=徳川の家を支える一事に徹する藩風を確立し・家憲に据えたことである。
そしてそのことが、黒船来襲政変の前後において、倒幕派との対決を促した。
新政府成った後、報復的措置が会津地域に集中励行された。
その悲劇は、現代にも続くと言われるが、悲劇を産む因は、藩祖正之の思想に始まっていた。
第2・3については、観点の置き方によって・その功罪は変動する。それは追って詳述したい
さて、保科の家だが、筆者の奇しき体験から始めよう。
定年退職直後の2〜3年、長野県にある菅平高原の近くに住んだ。菅平高原から最短で若穂(わかほ・現長野市内)地区に降りる冬期閉鎖道路があった。何度か利用したが、都度野猿と遭遇した。
仮称・野猿間道だが、その急坂路端に立て看板があった。「保科家発祥の地」と詠めた。
長野と言えば、列島有数の馬産地である。騎馬軍団で有名なのは甲斐源氏武田信玄である。
徳川家にとって、武田が統べた甲斐の国は鬼門である=これはいささか端的な表現であり、異論反論を呼ぼうが・・・・
三方原の戦=元亀3年(1572)で、武田の騎馬隊に大敗したことを生涯の戒めとして忘れなかった。そのことが、家康を後世天下人に据えたのであろう。
最強と言われた武田騎馬隊は、天正3年(1575)長篠の戦いで壊滅した。
その後間もなく武田家は崩壊した。その遺臣団を大量に召抱えることで、徳川家は更なる軍事強勢を誇ることとなった。
保科の家もおそらくその一員であったに違いない。関ヶ原戦後(1600)保科正光2万5千石が高遠に入った。保科の家と長野高遠とは、早くから縁が深かったようである。
余談だが。長野土産として”お焼き”が有名だ。
その原料は小麦である。私見によれば、馬産と水稲とは両立しない。小麦・蕎麦・陸稲であれば、馬の調教に要する広大な平地になりやすい。また毛無山となりやすい火山性高原・山野も、馬産地に適している。
これも余談だが、長篠の戦いと言えば。新兵器=火縄銃と新戦術=三段射ちの組合せ効果による織田方の大勝利として、世上広く知られている。
実のところ 武器は使って・戦闘はやってみないことには判らない。のではないだろうか?
最強を撃破して最強たるべき織田軍団だが、後に起きた加賀の国での戦いでは。敵勢の上杉軍に歯が立たず、あっさり敗退している。手取川の戦=天正5年(1577)でのことであるが、武田に通用した鉄砲連射が対上杉戦では奏功しなかったのである。
脱線ついで。先の川中島の戦=天文22(1553)〜永禄7(1564)で、上杉から領地を奪い取ったのは武田であった。
織田・武田・上杉の間の勝敗は、三すくみとなる。ややこしい。
余談は、まさしく予断をもって語らないようにしたい。
さて、本題に戻ろう
保科正之(1611〜73)は、江戸で生まれた。第2代将軍徳川秀忠の御落胤とされる。実母は諸説あるも、大工の娘であろう。
高遠藩主2万5千石保科正光<嗣子なく断家の懸念あった>の養子となったのは、元和3〜4(1617〜18。6・7歳頃) 養育料5千石が加増された。
この正之の誕生・養育を巡って複雑骨折に近い異説が多々ある。
江(ごう。小督・江与とも、後の崇源院。1573〜1626 2代将軍秀忠の継室)は、近江絶家浅井三姉妹の一人である。母は尾張国守護代たる織田信長の妹=お市の方だ。
継室とは、秀忠に正室が存在したにもかかわらず、関白秀吉の養女として嫁入した事情を語る表字なのかもしれない。その前後において正室が、どう?処遇されたか 政略結婚であり捉えがたい。
秀吉の配下たる一武将大名の嫡男秀忠は、絶対権力をもって女房を押付けられた形である。
その”江”だが、かつて織田一族の佐治一成に嫁し 出戻り?・更に羽柴秀勝<秀吉の甥・後に養子へ・豊臣を名乗る>の妻となり、一女をもうけた。その夫は文禄の役に従軍し韓半島で病死した。
徳川宗家において、秀忠との間に、千姫・家光など2男5女を儲けたとされる。
しかし異説もあり、権力家庭の公式記録と史実とは相容れないものがありそうである。
異聞”江”姫ストーリィーは、本稿のテーマからすれば脇道でしかないが。天下に知られた会津松平の家祖が、当初何故に?保科姓であり=複雑骨折と呼ばれる誕生・養育とどう絡むか=を知るためには、裏史論を漁り・独断的解釈を拓くべきであろう。
”信長の姪たる江の立ち位置は”、秀忠の3人の息子が、どのように?歩んだかを比べれば、自ずから明らかとなろう。
長子=家光とその弟=忠長との間の将軍継嗣問題は、もっと広汎な課題として捉えるべきであろう。
ファミリー内部での異論と解すべきでなく・幕府権力内部の派閥対立をも伺わせる・意外と根が深い政治課題であったようだ。
その後の正之の対将軍従属姿勢の構築・会津松平家の家憲制定に当り徳川宗家とどう接するべきか?その思想形成にまで、影響を及ぼしたことが伺える。
では大奥はどうであったか?親子・兄弟のことは「血と出生の場」たる大奥に係わる。
大奥は、表たる幕府政治に関与しないし。距離を置くべき後宮として、独自の運営ルールが存在した。大奥の全権を掌握する者は、将軍御台所である。
しかし、これは血脈秩序に関するルールが整備された幕府政治確立期の大奥である。権力機構の大前提たる大奥は、江戸期を通じて。存在観大きく・占める比重もまた重い。
”江”が生きた頃の大奥がどうであったか?不明な点が多い。要点を踏まえないまま書き進むことは大きな不安があるが、とにかく正之の存在は、大奥や・その元締めであったと思われる”江”に対し徹底して秘密とされた。
その背景にこそ、狂暴で知られた信長の血を受継いだ”江の性格”と・その夫秀忠の性格とが、対比的に反映されている。
秀忠(ひでただ 1579〜1632。第2代将軍・在任1605〜23)の意を受けた側近の老中土井利勝が、見性院武田信玄の次女、穴山信君正室、旧武田家臣団を纏める精神的柱芯役を果していたらしい>を動かすなど。出産から養育まで、江戸城の外において密かに遂行された。
このように表沙汰になることを避けた秀忠だが、父家康以上に慎重かつ遠慮な性格であったようだ。それは果して褒められるべき所作なのか?そうでないのか?簡単には決められない。
幸か不幸か? ”江”は、夫より早く逝去した。そのことで、正之の扱いがどう変ったか?
その設問に対する応えは難しい。
養父正光が要望し・広言していた実父秀忠との対面は、叶わなかったようである。
それに長兄家光との対面が何時であったか?を、未だ探りかねている。
次兄忠長とも対面したが、そのウエートは軽い。
とまあ3人兄弟の相互の関係に不明な点は多いが、紙数の都合もあってそろそろ纏めを急ぐ必要がある。
長兄・徳川家光(いえみつ 1604〜51。第3代将軍・在任1623〜51)は、両性を愛欲する奇癖を備えていたらしいが。落語の演題にある「目黒のさんま」とほぼ同じ経緯を辿って、末弟正之の存在と複雑骨折の経緯を知ったらしい。
その非公式ルートで得た”目黒情報”だが、将軍は公やけにするタイミングを図りつつ有効活用した。その巧妙さに彼の政治手腕を見ることができる。
行きがかり上 次兄・徳川忠長(ただなが 1606〜33)にも触れておこう。
彼は駿・遠・甲の3国併せて55万石の領主であったが、まず寛永8(1631)年 不行跡をもって甲府蟄居を命ぜられ。次いで翌9年秀忠死後に改易処分とされ。同年中に幕命を以て自刃させられた<享年28歳>。
上述した将軍継嗣を巡る一件で示された”江の立ち位置”は、この兄弟の不仲を暗示している。
単に不仲であったと一言で済ますべきでない問題がある。
実質親子2代=将軍3代で源宗家の血筋が途絶えた鎌倉幕府と、対極的に安定展開を見た徳川幕府とでは、どこがどう?違うのであろうか?
血脈の断絶は、天皇権力側(=後鳥羽院後醍醐天皇)から動く倒幕運動の動機となった。
単純に対比すれば、源家は2人兄弟/徳川家は3人兄弟
         源家は兄の子が叔父を襲い・男系全てが絶えた/徳川忠長家のみが絶えた
と図式化される。
純化の延長で括れば、将軍に対する接し方において、忠長と正之とでは大きな違いがあったに違いない。さしたる根拠もない空想譚だが・・・
おそらく忠長は実弟の立場でもって、兄である将軍に接したのであろう。
それに対して正之は、殊更一大名の立場で・将軍の臣下として、礼を尽くして仕えたのであろう。
その心がけの違いが、次兄は自刃 末弟の家は繁栄へとの対比を呼んだ。加えて、宗家たる徳川政権の長期存続に最も貢献する成果すらも招いたと考えたい