か麗の島 No.20

台湾旅行記にして・老年者が何で?今頃する放談録だが、20稿を迎えた。
第4コーナーを過ぎ、いよいよホームストレッチである。
彼の島には、名だたる名湯=北投温泉がある。秋田県にある高名な末期ガン患者のための救命的効能で知られる玉川温泉と並び称される名高い温泉地である。
この2つの離れた地域にある温泉を繋ぐ共通のものは、北投石と呼ばれる放射能を発する鉱石である。
今日も、放射能=核物理学を探る続編を紐解くが、自然科学とは無縁の徒たる筆者の手に余るテーマで、実に心もとない。
さて、北投石が発見されたのは、1905岡本要八郎によってである。
現地には彼の業績を示す石碑が建っているとのこと<ウィキペディアより>。
愛知県生まれの地質学者,後に九州大学に籍を置いた。
発見の契機はこうだ。
台湾総督府国語学校に職を得て暫く台湾に滞在したが、生来の鉱物好きと温泉好き。
北投石発見のタイミングは、新々の植民地からの報告であり・最新科学の成果たる放射能の効能を謳う世界的科学万能ブームにもよくマッチしていた。
北投温泉をドイツ人が発見した経緯については、前稿でやや詳細・長広に述べたが。その発見報告の翌年=1895その台湾島が、日本の植民地となる形で思わず転がり込んで来た。
最近、『1995年』<ちくま新書・著者=速水健朗 2013.11筑摩書房刊>なるタイトルの著作がリリースされたが。それからちょうど100年遡った頃に、植民地経営なる日本史上エポックメイクな出来事があった。
黒船来襲政変以来、激動期に入ったニッポン列島には、前代未聞の珍事が続発した。
植民地をどう経営するかは、頭の痛い新事態であり・明治新政府の未経験課題であった。
北投温泉に戻る。
1896大阪商人や商才ある?役人などが、温泉旅館を次々に開業した。その翌年 連絡道路が開通。
1901年北淡線鉄道が開通し、岡本が鉱石探しの山歩きをしたアト・ひと風呂浴びてから家に帰る条件は、おいおい整いつつあった。
ひと風呂なる言葉が出たので、つい脱線するが・・・
北投温泉に、日勝生加賀屋なる日系の温泉旅館がある。知る人ぞ知る高級旅館で、2010年12月にオープンしている。
加賀屋は、石川県和倉にある有名旅館だが。同社のホームページを覗くと、創業100周年を機に台湾現法を設立したようすが伺える。
因みに、この2つの温泉旅館に係る最寄空港は、小松空港台北・桃園空港間となるが。その航空路線運用は、2012年12月から毎日運航(ANA & EVAの共同)に格上されている。
さて、本論に戻ろう。1895台湾を植民地に得て、どれほどのメリットがあったろうか?
開国間もなく諸事不足 なかでも外貨手持が手薄な日本国としては、植民地での道路・鉄道の建設など 開発投資による財政的負担は、とても重かった。
戦争邁進と勝つことしか(これを君主・軍国制史観の最大の特徴としておこう)頭に無く、単線的拡大=成長と誤認して止まない短絡的世界観は、現代にも生きているが。
当時は、一層それが根強く・”明治気質”そのものであった。
植民地獲得をメリット・オンリーと肯定的に受止めたのは、海軍であった。艦船の燃料補給と乗組員の休養を考慮した場合、列島の外に拠点港を構えた機動性の強化は大きかった。
他方陸軍は、守勢に立たされた。公表されないが、台湾先住民の軍事的制圧に相当テコづり・多大の犠牲を払ったのは陸軍と民政警察であった。
ところで、台湾先住民だが。南方焼畑の拠点地域と目され、おおいに関心がある。
しかし未だ具体的接触を果たしておらず・遠い将来のテーマとしておきたい。
ほぼ10年後 日露間の戦争へ転ずるが。日本海海戦において歴史的大勝利を得た背景に、バックグランドたる台湾支配があったことを指摘しておきたい。
長・広に言換えれば。背景の1つは三国干渉での<山東半島放棄>対ロシア報復であり・戦術上の勝利たる海戦圧勝に寄与した台湾の隠れた地政学的効能が2つ目である。
以下はいささか脱線だが、戦術上の海戦勝利を以て戦争全体に勝利したと誤解してはならない。そこのところの列島スケール国民規模での勘違いが、1945年の大敗北を招き寄せたとも言えよう。
話題は再びキュリーに戻る。
キュリーの名は、科学史・女性史(=仮の名称、そんな歴史科目があればだが)に必ず第1番に登場するであろう。まったく希有な才媛である。
一部既に書いたことの繰返しだが、キュリー夫妻は1903に第3回ノーベル物理学賞を受賞した。受賞の業績名は、放射能の研究であり。受賞者はベックレルを含め3人であった。
女性初の受賞であったし。研究で果たした役割においても、質・量両面での貢献度においても,彼女が中心的存在であった。
更に加えて、1911今度は彼女単独で第11回ノーベル化学賞を受賞した。これまた化学賞での初の女性受賞であった。受賞業績名は、金属ラジウムの分離である。
因みに、8歳年長の夫ピエールは、不慮の事故により1904に急逝(享年49歳)していた。
2人の娘を抱えていたが、既に1908母校パリ大学の教授に就任(女性初の)しており。実績を誇る科学界の第1人者であった。
さて、化学と物理の違いが、筆者にはよく判らない。
ノーベル賞の授与は1901から始まったが、当初から化学賞と物理学賞の2本立てであった。
筆者が高校で学んだのは、もう半世紀もの昔だが。既に別建であった。設問するタイミングを失ない・今日未だ未解決である。序でながら文化と文明の違いもまた、異なるジャンルながら未解明課題である。
さはさりながら、もう一度ノーベル賞受賞業績に踏込む。
ラジウム=1個の仕事で2度受賞したわけではない。
物理学賞に係る中心業績は以下のとおりである。
新元素ポロニウム&ラジウムの発見と学会報告(97からマリーが着手・翌98から夫ピエールが参加し共同研究へ。同年末に学会へ報告した)を行い。この時併せて、当時ベックレル線と呼ばれていた強力放出エネルギーを放射能とした(新名称を与えた)。
この放射能研究は、その後も続けられ。1902ウラン・ピッチブレンド<=瀝青ウラン鉱>8屯を処理して、塩化ラジウム0・1グラムを得た。その放射能は、ウランの数百倍と強力だが、名称どおり化合体でしかなかった。
従って、放射能研究は引続き行われ。1910金属単体ラジウムとしての分離を果たした。
そしてこの業績に対してノーベル化学賞が贈られた。史上初の2個目のノーベル賞であった。
ノーベル賞に関して、この一家にはまだある。残り紙数の都合から、それをまず本稿で片付ける
本題である化学と物理の違いについての愚考は、明日の課題に持越すことと致したい。
結論はこうだ=1家5人で合計5個のノーベル賞を受賞した。
そんな例は未だ他に無い。
キュリー夫妻の間に生まれた長女イレーヌ(1897〜56)は、長じて母の研究助手になっていた。同じパリ大学ラジウム研究所で実験助手であったフレデリック・ジョリオ(1900〜58)と1926に結婚したが、その際夫の申出を受容れ・姓をジョリオ・キュリーに変えた。
余談だが、人権先進フランスは夫婦別姓ではないらしい。現在はどうか知らないが、粋なパリ男と言うべきか?
鴛鴦物理学者ジョリオ・キュリー夫妻は、後に中性子発見の契機となる研究などを共同して行ない。1934人工放射能を作る方法を発見し・学会報告した。
翌1935ノーベル化学賞を受賞した。
物理学者が化学賞を受賞するとは、何とも面妖だが。それは明日の課題だ