おもう川の記 No.18 大川と天海僧正

阿賀野川の上流たる阿賀川本流の続編である。
阿賀川は、会津盆地の中心部を流れる川、土地での呼び名は「大川」である。
今日は、その大川が育んだ人物を語ることとしよう。
その名は、天海(てんかい)。
生地は、会津高田と言われる。
”あいづたかだ”駅は、JR只見線4つめ(若松始発)である。
会津盆地のほぼど真ん中だ。
戦国時代末期から江戸初期にかけて活躍した僧侶、知る人のみが知る有名人?と言えよう。
第14稿只見川の節で、春日八郎を紹介したが。知名度・新鮮度で負けていようか?
実を言うと、生年は明らかでない。戦国とは混乱の時。記録が残らなかったのではなく・記録されなかった階層・宗教時代であったかも?
生年はある説によれば、天文5?年(1536)である。その説に従えば、彼の享年は107歳となる。
徳川家康に重用されて、「黒衣の宰相」とも呼ばれた実力者だから。没年ははっきりしている=寛永20年(1643)。100歳超の高齢死であったようだ。
本人の銅像が実在すると知って。意を強くした。並外れた仕事をしたから、銅像が建ったのであろう。あそうそう、銅像の所在、喜多院・山門<埼玉県川越市>だ。
ここで天海の略歴を纏めておく。
南光坊天海とも言う。天台宗の僧にして大僧正,死後に慈眼大師の号を送られた。
因みに”南光坊”は、比叡山に設けた彼の住居房の名だ。
主な業績として、まず特筆すべきは100歳を超える生涯である。当時として希有な長命だが、単純かつ困難だが偉大な実績である。
特筆の第2は、学僧から叩き上げた仏僧であることだ。
上に述べたとおり生育事情は不明。蘆名氏の女婿に当る船木の家に生まれたとする見解がある。これを筆者流に補えば、蘆名氏は戦国東北のスターたる伊達政宗に敗れて会津の地を退散し、本家筋里見系佐竹氏に拠ったとする見方がある。それで幼少から学僧の境遇に身を置いた事情が,納得できる。
ありていに言えば、落ち目の武家育ちが、居候の環境で武芸に励み・仮に功名を建てても・不遇な傍流ではたかが知れていると言えよう。
そこであっさり武士を捨て・幼少から宗教界に転ずる。親の智慧だろうが・・・
戦国と云えども狭い列島のタテ割り身分・序列構造の中。唯一・出自を忘れて・ワープしやすい・プロ集団たる仏教界の、それも本流本山たる天台宗の学僧から始めたのは、結果の銅像からみても大正解であった。
比叡山焼き打ち(元亀2年1571 織田信長の所行)では運良く生命を保った。その後、甲斐の国〜陸奥会津〜上野の国〜武蔵の国を転々流浪。実を言うと、この辺の事情も当人の語った自己申告略歴程度の信憑性でしかない。
筆者流に解すれば、この東国を徘徊したことが、後に徳川家康によって重く用いられる契機となったはず。特に最後の落着き先である無量寿寺北院<在・武蔵の国=埼玉県川越市。後に喜多院と改称する>に身を寄せた<天正16年1588>ことが、跳躍の踏み台となった。
北院以後の業績・経歴は揺るぎが無いので、本稿では詳細羅列を割愛する。関心ある読者は自らウィキペディアにアクセスされたい。
・・・・以下の展開は、筆者のいささか強引な解釈・・・・
さて主要業績を4つに絞り込む=天台宗を再興し・日光東照宮など一連の伽藍造成に関与し・寛永寺造成や江戸の都市計画に参画し・喜多院を再興した。
家康以下3代の徳川将軍に重用された仕事は、「黒衣の宰相」と呼ばれるに相応しい内容であろうか?
この疑問に応えることをもって今日の論稿に代えたい。歴史の見方なんぞは、検定教科書の設営に○や×で応ずる=そんなヤワなレベルで済まない、それが成熟した”市民社会の歴史”なのだと言っておきたい。
さて、「黒衣」
広辞苑に、こくえ=墨染めの衣。百科事典で、くろご=歌舞伎・文楽の後見役。とある
◎「宰相」は、現代では国の元首に仕える首相・総理大臣だが。江戸時代に当てはめよう、
”古代中国で天子を補佐して大政を総理する官”の広辞苑説明を踏まえて、ここでは
将軍の諮問に応じる役割の学識経験者グループ中の大物と解釈しておこう。
要するに、”こくえ”は彼の姿・政治の表舞台に出ない”くろご”だが、影響力は大きかったことであろう。
その役割の大きさを、例によって独断と偏見で切出してみよう。
徳川幕府の政治正面は、武士の棟梁としての業務である。
儒教朱子学武家精神の大黒柱に据え。戦乱を停止させ・内外ともに平和な江戸期を安定的に確立させ。戦国期の戦闘を教養科目=武士の心構えと思い込ませることに成功した。
この手柄は、儒家たる藤原惺窩や林家に属す。
ついでに精神基礎構築後の日々の行政面の手柄を論ずるとなれば、歴代将軍の側に近侍した徳川幕閣=老中・若年寄に属すわけだが・・・後々登場する保科正之が果たした役割は、その中の初期幕政における先例の形成に含ませるべきであろう。
仏僧天海は、棟梁正面業務の武士対策でなく・脇道とも言うべき民政分野で働いた。
担当した江戸の都市計画は、武士を含む民衆生活や経済行動に直結しており。特に寺院配置などは準軍事事項・一見派生的・付随的だが、この気配りが民生安定・平和固定化に寄与したのであった。
その眼に見えにくい成果こそが、彼の果たした裾野効果での貢献であった。
紙数の制約もあり、以下の2項目とその余波について略記する。
まず、天台宗の再興と一般に言われるが、その実質は喜多院の再興と殆ど重なる。この時代の宗教政策の意義=真の歴史理解は、神仏分離が強行された明治政変以降、困難になっている。
ありていに言うと、織田信長が破壊して再起不能状態にあった天台・延暦を、家康も天海も再興しようと考えなかった。江戸の北にある喜多院を天台・東国とし、延暦寺を天台・西国とし、同格に据えようと考えた。
但し一般に、喜多院は天台・関東の本院とされる。これもまた現代特有の無難表現で、今日的解釈を時間遡及させても、まともな歴史解釈とはならない。
家康と天海は、喜多院が東国本山・延暦寺を西国本山として並立させ、列島を二分した。
日光東照宮の創設理念もまた,同じ思潮の延長であった。
京都を西国の中心と考え、鎌倉を東国の中心に据え、二分・併存させた英雄的人物がいた。歴代の征夷大将軍の中、創見を持つ・希有な政治家=源頼朝であった。
彼が京都に住まなかったのは、京都では「サムライ」でしかなかったからだ。サムライの言葉としての本来の意味は、追従者=ガードマンかSPでしかない。
頼朝の頭脳は、武士の職分・思想を超越し・権力サミットの構想・戦略を展開した。
鎌倉に本拠たる幕府を置いたのは、頼朝の驚くべき政治センスに発した創見と行動であった。
家康が江戸に来たのは、彼の意思では無い。秀吉に疎まれ江戸に捨てられた。転んでもただ起き上がらない奴は、そこに幕府を置き・本拠とした。
その結果、列島を地政学的に2分し。東半分の支配者として君臨した。
以上で予告した2項目を述べた。
明治以降の官選史観では許容されない、極めてセンセーショナルな視点だが。証拠のようなものはある。日光例幣使の創設と朝鮮通信使の日光巡行を要請したことである。
これで今日の本題は終る。
次いで余波。述べる紙数無いが続けよう。
喜多院&日光東照宮の実務を処理したのは天海だが、根本構想は家康である。
政治戦略のスケールにおいて、家康に並ぶ人物はいない。
切支丹禁教に引っ掛けて、武士以外の人民を精神的にリードする大役を仏教界に担わせ。以て、約250年の秩序ある安寧の世を築いた。この仏教も江戸秩序。つまり神仏分離以前の仏教界であることを忘れてはならない。
天海の役割が長生き者の実務処理となれば。儒教を基礎に据えた藤原惺窩や林家に当る人物を仏教界から探しだす必要がある。
家康の傍にいて、民政の精神的バックボーン(=葬式仏教の始まりでもあるが)を構築した人物。それは、禅僧の金地院崇伝であった。彼もまた「黒衣の宰相」と呼ばれたが、さほど長生きしなかった。
ところで、天海を明智光秀の後世像とする考えがある。
俄に信じがたい、享年107が更に延びるからだ。
息子か弟だとするなら、可能性だけはある。と言っておこう
次回は、会津の第1人者・保科正之を採上げたい