おもう川の記 No.17 大川・概観2

阿賀野川の上流=本流である阿賀川の続編である。
前稿で、川としての地理外観を採上げた。
会津盆地の中心地域を流れる川であり、それ故に「大川」と呼ばれた背景もそれなりに理解することができる。
今日はその第2稿だが、、、『あががわ』なる音声から、思い浮かぶあれこれについて論じたい。
第1声が、母音の冒頭音=”あ・a”であるから。最も力強い訴求力を発揮している。
型通りに、意味も記述するが。オラの川にしておらほの河。単純・直裁に郷土愛が発露している。
論じたいことは、以上をもってほぼ尽きている。
さて、余談に移る?とするが・・・・
発音・発声は同じだが、用字として「揚川」と当てる例がある。
更に敷衍すると、表意文字の体系では、文字そのものに”音”の機能と”意味”の機能が同事に備わる。
更にくどくど説明したくないが、文字の両義性について触れる。
文字を使って文を書いた人とその文を読む人との間で何らかの齟齬=つまり”誤解の生じる”余地がある。
さて、前置はさておき。
「揚川」に因む、揚北衆(あがきた・しゅう)なる言葉がある。
この詠みにくい一連の文字だが、北は即ち上=例証・普通の言い方で北上する / 南下する=に当る方位である。
単純に方位に由来するコトバとも解せる。
しかし、別の解釈もある。
東アジアに勢力を張る仏教の中にみえる妙見(みょうけん)信仰を土台にして、このコトバに備わる・ある背景を踏まえると、そこに意図された上昇志向の達成および自我意識の強さを伺うことができる。
では揚北圏域に、列島のどの地域までを含めるべきか?  筆者には決めがたい
時に1年の半分の季節が、雪で閉ざされる・農業による食糧生産に適さない気象条件の土地に、永々と居住し続ける意志の強さを見たい。
『あがきた』なる標語に・自らを上の位置にある者とする主張意志が、重なってみえるようだ。
ウィキペディアで、揚北衆に当ってみた。
空間画定は、阿賀野川の北岸としている。
時間軸は、鎌倉〜室町〜戦国の時代を当てている。
一応 揚北衆として登場する国人豪族層を掲げる。
地域の名           氏の名=国人の名   系統族名&本貫地名
白河庄<現・阿賀野市の付近> 安田・水原・下条   大見・党   伊豆の国
加地庄<現・新発田市の付近> 加地・新発田・竹俣  佐々木・党  近江の国
加地庄<現・新発田市の付近> 五十公野(いじみの) 佐々木・党  近江の国
奥山庄<現・胎内市の付近>  中条・黒川      三浦和田・党 相模の国
荒川保<現・関川村の付近>  後に垂水       河村・氏   相模の国
小泉庄<現・村上市の付近>  本庄・色部・鮎川   秩父・党   武蔵の国
ここまでが、ウィキペディア本文からの転記である。
次に筆者の補足を述べるが、独断と偏見に基づく片言でしかないことを申し添える。
1、 合計6つの庄と保(ほう)の並べ順は、阿賀野川の畔(=即ち南の端)から北上させた。
2、 庄(=地域の名)は、荘園<私領>・地頭の職分に由来する。鎌倉時代における有力武士団(=系統族の名&本貫地の名によって示した)の中から選抜・配属された。
3、 保(=地域の名・ほう)は、国衙<=律令官制>領・地頭の職分に由来。配属経緯は庄に同じ。
4、 氏の名は、土着する課程で獲得した名乗り。地名に由来する武家集団の通称と解してよいか?
5、 上記6分類は、越後国の範囲内に収めようとするウィキペディア記述意向の反映と想像される。
   筆者は、戦国末期における上杉氏の勢力範囲を考えれば山形県から秋田県の南半地区を含めてもよいと考える。その場合6分類を凌ぐ数となろう。佐渡については考慮しなかった。
   更に、『あがきた』の範囲をどう考えるべきか?だが、東北地方の西側<山形・秋田・青森”うち太平洋沿海の下北地域を除く”>の3県に現・福島県会津地域を加えた範囲が相当であると筆者は考える。佐渡は含めない。
6、 奥山庄&荒川保については、本稿既刊=荒川の編・節で紹介した。
7、 奥山庄に拠点を置いた黒川(人名だが)は、会津若松市の旧地名と重なる。両者の間に何らかの関係あるか?
8、 国人は、前期封建社会における在地土豪<自ら営農する土着武士集団で、支配地を”一所懸命の地”と呼ぶ>である
さて、そろそろ纏めをする時間帯である。
列島も北の端・農業に不適な寒冷地・河川に囲まれた氾濫地を一所懸命の地と定めた国人層だが、名門武士団の後裔一族だけに誇り高く・強い独立性を維持したと言える。
しかし、南北朝以降、戦国大名による分国支配体制が、列島全域に及び・定着する時代となるに従い。
さすがの経済後進地域にして・辺境北辺である『あがきた』の地にも、戦国分国体制=後期封建社会化が及んだが。列島の中でも最後まで営農地を離れず・専業戦闘家臣団への移行が最も遅かった地域である。
幕末期の上杉家臣団にみられる色部氏は、揚北衆の出自だが。
彼ら揚北衆を個別撃破し・説諭して取込むことで、上杉の越後一国支配は完成した。
その直後・間もなく、秀吉による天下一統が実現して。小田原落城後に、上杉氏は会津へ加増・転封となった。
阿賀野川&阿賀川ワールドにおける上杉の顛末に限って、今日は揚北衆のことを述べた