か麗の島 No.15

北投温泉にまだいるが、前稿で紹介したそれとは異なる。
別の日に、まったく新たなる気持で、新しい温泉を目ざした。
渓谷の谷底に近い方の、男女別浴・裸浴の方の温泉である。
銭湯よろしく入口に木戸銭男がいる。
入浴料を払ってから、フラットな奥にスーッと通る。
なんと脱衣場も洗い場も浴槽も一体構造の一堂造りだ。
勢いよく踏み込んだら、オッとウッカリ。そのまま湯船に、ドボンとなりかねない。
このシンプル過ぎる・慌て者土左衛門母屋は、既にどこかで味わった風情だなと。チラと想った。
そうだ、長野県は、野沢温泉の源湯群を思い出した。
毛無山の中腹にへばりついたような村だが、共同浴場が13もあり。本来は地域住民のための温泉だが、町外から遠征した観光客にも無料開放されている。
筆者は、ど真ん中にある「犬養御湯」に入ったことがあるが、その母屋造り・配置構造がほとんどこの北投温泉と似通っている。
ただ、歴史の方は、野沢温泉の開湯が奈良〜鎌倉だから圧倒的に古い。
この手の温泉に入って、まずやることは決っている。
そーっと手を入れて、湯温を確かめるのである。
どちらのお湯も筆者には、少なからず熱過ぎた。
源泉掛け流し・無添加・無加水と、湯の状態もまた造り同様シンプルである。
熱すぎる場合は入浴そのものを断念する。
こんなときは着物をいったん脱いで・アトでそのまま腕を通すような無駄を避けることになる。
しかもこの古典タイプのシンプル構造じゃ、湯船の中から目を出す衆人環視の中のストリップとなる。一層想う・無駄は避けたい。
しばらく迷ったが、海外遠征でもあり・折角ここまで来たのだからと想い。
入ることとした。
やはり熱かった。すぐに出て、湯船の縁に。
と言っても、雑然と不揃い凸凹岩・ブロックのカケラめいたものを、雑然と並べてあるだけ。
一堂の中に10人ほどの先客がいた。全員老人、見た目だが、筆者が最年少かも・・・・
早速話しかけられた。
な、何と日本語であった。
「皇太子時代にここに来ているのを知っているか?」
「はい、知ってます」 入口ヨコの庭と言うか?空き地の中にその旨を彫った石柱がある。のを観てから入って来たのであった。
1923年とあるから、昭和天皇が皇太子・摂政殿下時代に行啓したことになろう。
さて、北投(ペイトウ)なる名前の由来だが、現地にある温泉博物館で入手した日本語版頒布物によれば、この地にあった先住民ケタガラン族の集落名=北投社から来ていると言う。
台北市台湾島の北端に位置する陽明山国家公園<その昔 大屯山の火山活動が休止した跡と云われる>との間は、現在も温泉エリアになっている。
かなり早い時期から、硫黄採取の目的で多くの荒くれ者が出入りしていたらしい。
北投温泉を発見したのは、1894年ドイツ人の硫黄商人とされる。
その翌年、台湾は日本の植民地となり、その明くる年=1896大阪の商人が、第1号の温泉旅館を開業したと言う。
北投温泉と云えば、最も有名なものは、北投石である。
発見者は、日本人の岡本要八郎、1905年 北投渓谷の一画においてである。
ラジウムを放射する天然石は、有名な秋田県玉川温泉と同じ効能があるとされる。
玉川温泉には、筆者も10数年前に1週間ほど連泊したことがある。
以下は筆者の実体験だが、地熱地帯の中の地べたに薄縁を敷いて。水分補給しながら・正確な時間計測の下で休憩を取りつつ・約半日ほど全身を暖める単純作業に従事した。
仮設の俄造りの日除テントの中に、20人ほどのガン患者が充満していた。
彼らのいわゆる岩盤浴談義が、自然と耳に入ってくる。
その多くが西洋医学から不治宣言・余命数ヶ月を申し渡されつつ・北投石の効能に縋らんばかりに玉川温泉に長逗留している面々であった。
今日の紙数はもう尽きたので、いったん中断する。
放射能がもつガン治療効果については、正直よく判らないが。北投温泉の発見&北投石の発見は、放射線時代の草創期と重なっている。
明日は、核物理学についてズブの素人である筆者が、余談風に語ることで。ヒロシマナガサキ前夜の放射能蜜月時代相を採上げることにしよう