おもう川の記 No.13 只見川・概観1

阿賀野川の続編=第5節である。
今日は、最も河口から遠い上流=支流である只見川について書く。
源流地帯は、かの有名な尾瀬である。
尾瀬には何度も行っている。正しく言えば、何度行っても新しい発見がある、飽きない楽しさを秘めたポイントだからこそ、特別天然記念物指定となっているのであろう。
ありていに言えば、只見川の源流は、東北の最高山地=燧ヶ岳(山頂標高2356m)である。
そこに降る雨の多くは、南の麓にある尾瀬沼に注ぐ。
尾瀬沼は、燧ヶ岳が噴火した際に流れ出た溶岩流が沼尻川を堰止めて作ったいわゆる堰止湖(水面標高1665m)である。
沼尻川は、尾瀬沼の北西端から、その下にある尾瀬ケ原に向けて流れ出す。
尾瀬ケ原(平均標高1400m 概算面積8平方km)は、日本最大の高層湿原だが。
登山者は、設置された木道の上を離れることを禁じられており、川筋を追うことなど到底望めない。
沼尻川との出逢いは、原の東端にあたる見晴(みはらし)付近だけ。それ以外のチャンスはほぼない。
地図を見ると、沼尻川は尾瀬ケ原の北側の一画=通称・東電小屋の近くで、西から流れてくるヨッピ川と合流する。普通川の名は、合流点で変ることが多い。
ここでも沼尻川とヨッピ川との合流点から下が只見川となる。
只見川にとっての上流・支流のひとつであるヨッピ川についても、一応触れておく。
ありていに言えば、源流は2つ。至仏山(2228m)ならびに鳩待峠(1590m)の双峰・中間付近としておこう。
さて、只見川である。
合流点から約2kmほど尾瀬ケ原の中を流れ、原の北端にある平滑の滝・三條の滝を経て、約15km下流銀山湖<通称=奥只見湖>に至る。
只見川には16の電源開発ダムがあると云われ、その中でも奥只見ダムは最大級=設計湛水面積1,150ha(一説に列島ランキング第3位)とか・・・銀山湖はダム<1953着工〜62完成>が作った人造湖。名称の由来は、江戸時代に発見された銀鉱=銀山平(標高750〜800m)に因むが、その多くは湖底に沈んだ。
只見川の川筋は、越後山脈新潟県と山形・福島・群馬県境をほぼ南北に走る・越後三山を含み・南は三国山脈へ続く>の東側斜面に当る。その特徴は、西側=新潟県サイドの緩斜面と対照的に急斜面であり、列島有数の豪雪地帯(5〜6mの降雪が当り前と聞く)でもある。
そのため、早い時期から電源開発の有望地とされ、1971年に全通したJR只見線福島県会津若松市会津若松駅新潟県魚沼市小出駅間135km。2011の両県集中豪雨被災により一部区間バス代行輸送中だが)が建設された際の主な輸送物資はダム建設資材であった。
阿賀野川の最上流域の1つである只見川の概要はほぼ以上である。
山岳地域、急峻な山腹斜面、電源立地などが、地域の特徴となれば。自然に平地不足・農業不適などから人口希薄な過疎地に直結することは避けられない。
あえて、この川に因む有名人を探索してみた。最下流部つまり阿賀川(大川とも言う)との合流点にある会津坂下町から春日八郎(1924〜91)が出ている。生まれた時期や年代から演歌の草分け的存在とされるが、初ヒットが1952の「赤いランプの終列車」とあるから、メが出るまで下積み期間が長かったようだ。
何と言っても思い出すのは1963の「長崎の女(ひと)」である。
JR只見線に「あいずわかまつ」から乗車し、8つ目の駅=「あいずばんげ」10番目が「あいずさかもと」駅がある。そして,その中間駅「とうでら」=9つ目<乗車駅から26キロ>が、彼の生地の塔寺に最寄りである。
ところで、演歌の世界にご当地ソングなるジャンルがあるが、まず有名観光地・名勝地があり・それに便乗してヒット狙いの唄がアトで作られる。とまあ、そんな時間経過だが・・・
草分け期ともなると、逆の進行がみられるらしい。「別れの一本杉(1955 60万枚の大ヒット)」は、実在するものと勘違いしたファンの問い合せ電話に、当時の町長が急遽反応し・地域探索に出かけたとの逸話がある。言わば、アト拵えの”ヒット曲が生んだご当地”となろう。
今日の紙数はもう尽きている。手短かに駄足を駆け足で
まず、越後山脈の山越えは命がけであったらしい、距離計算10倍の法則があったと言う。
八十里越 福島県南会津郡・只見町・叶津〜新潟県三条市・下田。主に運ばれた物は、信濃川経由の塩が会津地域に運び込まれた。
◎六十里越 会津側は同町・田子倉〜越後側は北魚沼郡入広瀬村。主に運ばれた物は、関川(港は直江津=現在の上越市)経由の京都からの下りもの(木綿などの古着、日用雑貨)。なお、注目すべきは、会津青苧(あおそ=カラムシとも言う。越後縮=えちごちぢみの原料)を仕入れるために小千谷商人が多数往来したことである。
◎ついでに青苧(あおそ)に触れる。
中世は、公家の名門=三條西家が、青苧座の本所をつとめ、越後〜畿内間の独占販売権を付与していたが。戦国期に越後守護代から身を起こし・上杉家を継承した長尾氏が、三條西家の既得権益に割って入り・軍資金を手厚くするに至った。織豊政権時代の解放を経て・上杉氏の会津〜米沢への転封に伴ない、越後縮の生産技術が新興2地に流出した。なお、江戸期には、越後上布を使って作る裃が、江戸城登城時の正装となった<幕府買い上げへ>。
最後の駄足だが、尾瀬ケ原の東電小屋付近に、福島・新潟・群馬3県の境界ポイントがある。
奥山にある水源の配分権益が、地政学マターとして自然の有り様を歪めるのであろうか?
筆者が考える地理学上の境界は、分水嶺をもって県境ラインとする=すっきりした自然の姿である。
より具体的に書けば、群馬県は、黒岩山〜荷鞍山〜鳩待峠〜至仏山〜景鶴山を結ぶラインまで後退するべきであると・・・
あえて、その背景を揚言すれば、水源のような天賦の物財を私権の対象とするべきでなく、せいぜいで用役権・利用権の分与に留めるべしと考えるものである。