おもう川の記 No.12 阿賀野川と新潟港・蒲原

阿賀野川の続編=第4節である。
今日は河口である新潟の時空を概説する。
新潟市阿賀野川の河口ではないよ”=誤った記述だ、と指摘されそうだが・・・・
そのことは前稿第3節で書いたが、繰返す
江戸時代半ばの享保30年(1730)新発田藩(しばた)は、洪水時の増水分を流すための堰と水路を造成した。
ところが、翌年になって。春の雪融け奔流が、川幅を拡げ。その結果、阿賀野川の事実上の本流となってしまった。
人力による河川改修工事が引金となったが、大自然の力が齎らした変化である以上。
人知をもってする原状回復は、到底叶わなかった。
以上が再説である
文献を引用する
「大新潟湊展・図録」=新潟市歴史博物館・開館10周年記念特別展・2014年3月発行=
 ・・・ 寛永8(1631)年、阿賀野川信濃川へ合流した。・・・95頁より
ここで筆者の独断と偏見により、修正記述を試みる
・・ 寛永8年(1631)の河口共有<一方が他方に合流したに非ず>は、文献による最も近い時期の洪水の結果に過ぎない。阿賀野川信濃川との2つの大河は、人類登場以前の太古から何度も洪水を繰返し・流路を激しく変更してきた。
合流も分流も変転極まりなく・どちらか一方の状態が長く続くことも無かったと理解すべきである。 ・・
行きがかり上言及するが、新潟の特産代表ブランドは『米と酒』である。
穀倉地帯としての新潟平野はどうなる?
洪水常襲ゾーンでは覚束ないぞ!!
列島有数の大規模平野の形成は最近30〜40年のことでしかない。と、筆者は答える。
しかし筆者の創見ではない。下記は富山和子著・日本の米<中公新書1993初版>の200頁からの抜粋である
信濃川の河川管理・治水調節が一応の水準に達したのは、大河津分水の補修工事竣工通水1931& 関屋分水の竣工通水1972以後のこと。
新潟平野の安定は、僅か30〜40年の昔=それが厳然たる事実だ。
さて、合流・分流の問題を切上げて・次なる課題=新潟湊の時間軸問題に移る
新潟湊の文献上の初見は、延喜式にみえる「蒲原津」であり。越後国の国津(くにのつ)である。と、図録(上掲の前者)6頁に紹介されている。
細かい点に拘れば異論際限ないが、ここでは2つに絞る。
◎第1、蒲原津の比定地を新潟にすることの無理である。
およそ900年前まで海は新津・小千谷辺りまで入り込んでいたとする見解がある・・・・日本の米(上掲の後者)200頁より・・・筆者は延喜式が書かれた時代と重なると理解している
国津(くにのつ)を律令制における国衙専用の流通港と措定<手持の広辞苑・百科全書に見出語なし>しても、高田平野<=頸城郡>のうちに置かれたであろう越後国府と新潟の湊では、相互の距離があまりに遠すぎる。
国津は国府から都へ向けて租税稲を運び出す=海上輸送の起動点だ。2陸地の中間位置にこそ置かれるべきであって、都と逆方向に当る=北の新潟に向かうはずがない。
◎第2、越後今町湊の存在である。
関川河口・現在の上越市にある直江津港に比定される。
文献上の初見は室町時代だが、高田平野<=頸城郡>の基幹河川たる関川に立地する以上、律令期から上古まで時間を遡らせることに無理は無い。
越後今町湊は、廻船式目に登場する。
ありていに海事法規集のことだが、室町時代の編纂にして海事港湾史において必見かつ最古の文献資料である。
そこに書かれる三津七湊<さんしんしちそう>が、当時における列島を代表する10大港湾に当る。
蒲原津の名は出てこない。
さて、紙数も尽きそうなので、一挙に近世の新潟湊にワープしよう。
天保14年(1843)「北前船」の寄港地として、最大のウエートを担っていた新潟の港が上知されて幕府直轄とされた。
北前船は、江戸期を通じて重要貿易物資であった海産物産地=蝦夷と大阪=人口重心域の流通中心とを結ぶ日本海の物資・情報ハイウエイを担った。
日本海における新潟の地理学的位置と”佐渡おけさ&ニイガタ美人”に代表されるアトラクティヴなサービス所謂人為的創意工夫の集積・継続とが相まって、新潟湊に立寄らない北前船はなかったらしい。
初代新潟奉行となったのは、川村修就(かわむらながたか)である。
彼の前職は勘定吟味役・担当していた仕事が江戸湾防備のための調査であった。
川村の家は御庭番役の家系、しかも海岸砲術に長けていたから。
新潟周辺の海防強化を図るため、幕府領地へ上知替えされたのであろう。
ただ、先立って幕府が摘発した「抜荷事件」との関係も考えられる。
新潟周辺で、天保7・11年(1836・40)と2度にわたって、密輸の立件が行われた。
マル図形に十字のマーク(=明治政変の立役者となった南端雄藩)に因む船が、唐物を十日町<現・十日町市>の加賀屋薬店に引渡したことが明らかになった。
当時輸出入貿易は、長崎を唯一の経由港として・すべからく幕府の独占であった。
幕府は莫大な貿易の利を独り占めし続けるため、時代と海外列強西欧国の要請に背いて、海禁政策を続行する必要があったのだ。
今日のテーマは以上である。
以下は例によって、駄足である。
上知される前の新潟町=海港は、長岡藩領であった。信濃川の河口=最下流域でもある。
対岸に沼垂港があるが、新発田藩領(しばた)であった。
沼垂港は厳密に言えば、信濃川の上流・対岸であり・旧・阿賀野川畔に当る。旧とは上述した河口分水前を指す。
序でに言えば江戸期を通じて、長岡・新発田の両藩の間で、港・川に絡む訴訟が6回もあった。
幕府の裁決は、より海に近い新潟を勝たせた。常にである。
因みに長岡牧野家は譜代・対する新発田溝口氏は外様であった。
更に遡れば、越後1国が1598年まで上杉単独支配であったから、1つの水系を巡る両岸対決がトラブルに発展することは無かったであろう。
1つの水系を分割統治の下に置くことに、無理と無駄がある。
近い将来、地方の時代ならぬ地域主権が実現するであろうか?
・・・・3段行政構造に内在する高い国民負担と役所天国と称される資金ロスの多い非能率・公金横領常態の行政から脱却する新体制へのの移行が望まれる・・・・
無理と無駄の排除と正常化への回帰は、国政事務を国から取上げて、道州制下の地域公共団体へ全面移管することを骨子とすべきである。
道州制なった近未来では、地域主権を担う主体が、独立して行政事務を包括処理する特別市<=行政構造が1段に集約される>と道または州の管轄・監督を受ける市・町・村<=行政構造が2段に合理化される>に変化する。
官主導の国情たる列島でも、社会全体の迅速・効率化が図られるであろう。
明治政変後も、1つの水系を分割統治する愚行(=上・中・下流&左右両岸)は踏襲された。
1つの水系を単独包括統治する例の方がむしろ例外で、青森・秋田・山形などに僅かみられる。
3県は人口重心から遠い、いわゆる過疎・後進経済群の地域である。
熊野川の両岸は、和歌山・三重の2つの県域に各個別に属している。
新潟・山形県境(鼠ケ関付近)も、ほんの小川の両岸である。
大河ほど、上・中・下流がそれぞれ別の都道府県に跨がっている。
既に述べたが、阿賀野川新潟県内の呼び名で・福島県域では川はそのままなのに名だけ阿賀川に変る。
信濃川千曲川も同じ・・・・
名前の2重存在だけが煩わしいのではない。
水系管理行政事務のあらゆる要素が不合理の極みだが、核心的重要事は隠されている。国民は情報から隔離されている。