か麗の島 No.13

阿里山の大木の話=続編である。
台湾の高山帯に残る、樹齢2千年を超えるとてつもなく大きい巨木群。
一度切倒してしまえば、その生育環境からして、再生はおそらく不可能であろう。
とすれば、そこに鉄道を敷き・切出したことは、かつての日本帝国主義が植民地に対して行った・消しがたい悪行と言えよう。
さて、帰国して間もない去年のことだが、ある知人に阿里山を訪ねた話をした。
即座に薬師寺再建のことを聞かされた。
その時は、格別の感慨もなかった。
年が明けて、いざ阿里山のことを書き出したら。とたんにそのことを思い出した。
薬師寺は、日本の国宝たる・古い・仏教寺院である。
戦後の薬師寺再建修復は、昭和50年頃のことである。
後に詳しく書くが、日台関係が最も激しく揺れ動いた=実に微妙な時期と重なる。
奈良西ノ京にある日本を代表する大伽藍を修復するための用材として、台湾国民の共同資産とも呼ぶべき阿里山の巨木が使われた。
歴史にIF(=もしも)無しだが、台湾サイドで国民規模の騒ぎに発展しかねないリスクがあった。
1宗教法人と林業者との間の・国籍を跨ぐが・単なる商取引マターに過ぎないとする一面も当然にあった。
結果として、何事も起らなかった。
行きがかりで、少し踏込む。
世上よく知られる薬師寺の伽藍整備は1967年に始まる。
この昭和の大事業は、2人のキィー・パースンが運良く同時代に居合わせることで成就した。
厳密に言えば、この過去形表現は叱られそうだ。薬師寺の伽藍整備そのものは現在進行形だからである・・・・寺の事業は驚くほど息が長い。
かの有名な東塔は、法隆寺に次いで世界2番目の最古木造建造物(ざっと1200年以上)と言う。
ここでは金堂と西塔の再建しか扱わないし(2つの建物は既に完成した)・2人のキィー・パースンも故人となっているので、過去の事実として記述する。
まずは、高田好胤<たかだこういん 1924〜98>=薬師寺124世管主法相宗・管長。
前師の後を継いで管主・管長に就任した1967金堂再建を発願する。
2人目は、西岡常一<にしおかつねかず 1908〜95>=宮大工。法隆寺棟梁の家に生まれる。
幼児より祖父の英才教育を受け、1970薬師寺棟梁に就く。
2人の関係は、工事を発注する側と任される側の間柄だが。西塔の再建については、西岡の方から提案し・高田の方が引込まれたとの噂が残されているくらい。両者の心意気はピッタリ合っていたらしい。
記録によれば、西岡は1971と1974の2度に渡って台湾を訪問しており。金堂と西塔の用材をそれぞれ現地に赴いて選んでいる。
国宝の解体修理は、文化庁をも巻込み・多くの建築学者も参加する大事業だ。
利害関係人が多いから、往々にして舟が山に登る=ノア座礁を招きやすい・・・・
実務家・職人の西岡は、強面・辛口に頑固さを貫いたようだ。揺れていては棟梁が勤まらないらしい
特に西塔の方は、設計段階から積極的に参画し、持論を強行するきらいがあった。
そこで金堂の方はまだしも、西塔の成果に対する賛否の方は今でも並論喧しいものがある。
彼の見解が証明されるのは、300〜500年後の未来とされる。木造建築は列島固有の文化だが、その息の長さに圧倒される。
薬師寺の金堂は1976・西塔は1981にそれぞれ再建なって落慶法要が営まれた。
さて、高田の果たした役割だが、一言で言えば、金堂再建費用=当時の金額で10億円と云われる=を用立てることに成功したことである。
写経勧進なる斬新なアイデアを打出し、国民規模で喜捨を取付けた。
言わば、高齢時代の幕開け期に「写経ブーム」の火を点けた第1人者だが、昭和の希代の名僧であった。
2人の昭和の傑物がコンビを結成して事を成した=「人の和」に係る今日のテーマは、以上である。
以下は,例の駄足である。
人の和・地の利・天の時に因んで、その時台湾が置かれていた状況=「天と地」を回顧してみよう。
◎ 1971年7月 米国大統領ニクソンの意を受けてキッシンジャーが秘密裏に中共を訪問した。
◎ 同年10月 〔中共〕が国連に加盟を認められ・以後国連における「中国の役割」を果たすこととなった。寝耳に水の台湾は、この時国連から去った。
◎ 翌72年 日本が(首相=田中角栄ニクソンに追随した。
これ等は、国際政治における戦後最大の混乱を抜書きしたものだが、一般にはニクソンショックと呼ばれる=アメリカの外交方針が激しくダッチロールした混乱のほぼ10年の始まりであった。
駄足ながら、ミズーリ休戦協定体制をニクソンは、手のひらを返すような安易さでひっくり返してしまった。ヴェトナム戦争の重荷が狂気の大統領を再選させ、国民全層的狂躁状態を招いていた。
この時最も大きく被害を受けたのは、台湾であった。
台湾にとって手痛い打撃は、以下の3つにおそらく集約されるであろう。
1、 大陸中国が台湾領有権を打出し、世界の戦後秩序をぶち壊す
2、 或る日突然アメリカも狂気変身し・台湾を放り出す事態に
3、 盟友にして貿易相手たる日本が突然に、台湾との外交を断絶する
◎ 1979年1月 俗称ニクソンショックが一応終結しダッチロール収束へ向かう
にもかかわらず、この間何事もなかったかのように、阿里山の巨木は薬師寺に届けられたのであった。その時台湾は代価として纏まった外貨を得たが・・・・
その資金はどこでどう使われたであろうか?謎である。
ここで話題は転ずるが。その後の展開は、台湾にとってある意味幸せであった。
◎ 1974年8月 ポパイが辞めた。
◎ 1975年4月 ピーナッツが死んだ。
再度=1979年1月 米・台の外交関係は、国連問題を除き一応修復段階に転じた。
◎ 1988年1月  蒋経国が死んで、李登輝が昇格する。
◎ 2003年10月 宋美齢<スーン・メイリン>が死んだ。
残り紙数から極力 端折る。
▲ ポパイはRニクソン(1913〜94。大統領在職69〜74)だが、米国史上唯一の中途辞職するに至るスキャンダラス・ウォーターゲート・メンバー。1973年1月にヴェトナム戦争を事実上終らせた。
当時の米国は全層規模で道徳破壊が進み最悪期にあった。その主因は東西冷戦への硬直的対応から来る失政だったか?
▲ ピーナッツは蒋介石(1887〜1975。中華民国総統在職48〜49・台湾移転後50〜75)だ。08〜11来日(軍務留学)=陸軍士官学校受験に失敗し・高田連隊に配属された。台湾逃避後は反共復陸一辺倒・現実逃避の姿勢を貫くなど、性・凡庸か?革命的思想家=孫文との出逢いが好機となり・その義妹=宋美齢を妻にした。最悪のピンチ=西安事件(捕虜状態)で妻により救出された。
▲ 蒋経国(1910〜88。総統<在・台湾>在職78〜88) ピーナッツの長男=宋美齢が生んだ子ではない、24〜37モスクワ留学、事実上のピーナッツ後継総統
▲ 宋美齢(1897・98・1901?〜2003)上海生まれ、父<=客家>は始めメソジスト教会の宣教師であったが、後に事業界に転身し浙江財閥創始者の一人となる。映画=宋家の3姉妹に描かれる著名家系。
 1927ピーナッツと結婚、米国留学・東部名門女子大を主席で卒業しており、英語が流暢・美貌から戦前戦中にかけ3度タイムズの表紙を飾った。夫死後の75から帯台と滞米を繰返すが、生涯を通じて台湾政治の中枢に座を占めて、影響力を発揮し続けた。
”言わば、陰の実力者にして・対米交渉の窓口的存在であった”と推測してよいだろう?
因みに阿里山から薬師寺用材が搬出されたであろう時期は、台湾滞在期間中にあたる。
さてそろそろ纏めだが、台湾を観望することはとても難しい。
李登輝以後の新しい台湾とそれ以前の古い台湾とは、区分して考える必要があろう。
古い台湾の権力は、孫・蒋の2家と宋家・孔家などの浙江財閥系ファミリーの手の中にあった。
その意味するところを述べる時間はないので、司馬遼太郎が書いた「街道をゆく第40巻=台湾紀行45頁を引用したい。「中国人世界には家族主義と宗族主義だけがある」とする孫文の分析を紹介しつつ司馬史観は、『中国文明には私しかない』と結語している。
新しい台湾については、何も論じない。時期尚早であるからだ。
ただはっきりしていることが1つある。
小国である台湾は、大国横暴の挙に出やすい大陸中国に乱され続けることであろう。
最近その煩いは、西太平洋に位置する日本・フィリピン・ヴェトナムにまで及んでいる。
既成の国際秩序を無視した・その強引なやり方は、国内問題の行詰まりを国外に視点を逸らさせる。
陳腐な小手先外交手法であること、見え見えである。
とりわけ台湾は、地政学的・人種的繋がりから大陸中国に強く影響され・翻弄され続けることであろう。

街道をゆく 40 台湾紀行 (朝日文庫)

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