おもう川の記 No.11 阿賀野川の全流方位線

阿賀野川の続編=第3節である。
迂闊にも取りかかってから、如何にも大河であることに改めて気がついた。
歴史地理事典などによれば、支流が140以上もあるとか。
となれば、戦略眼を持つべしと、考えが変わった。
3節に来てから何だよ。遅過ぎるじゃないか
60の手習いじゃあ已むなしか?
まず概要データの紹介だが、その確定が意外と困難であった。
信頼性を確保したいと想い、複数の異なる資料に当った。
それが躓く始めであった?
まず総流長210km
次に総流域面積だが、一方は7,710 他方は7,340・・・ともに平方キロメーター
とある。
権威ある?資料の間で、データが異なる・・・どうしよう?
この躓きは、日本人の特徴たる=「拘り」から来ている。
日本人は以下のように考える
答は1つ。予め決っている。急いで決めなきゃ。
戦後の国民創成強制が造り出した、1つの癖=国民性とも言うべき「ある愚かさ」でもある。
大学受験一点に絞られた拙速主義・行政庁検定教科書に絞り込まれた画一主義・経済効率至上と考える国民国家主義などなど、
深く毒された・己れの浅はかさに戦く。
気を取直すべく、解決策を考える。
ベストな方法は、自ら起ち上がって、実測の旅に出かけることである。
しかし、すぐに諦めた。
伊能忠敬が持っていた測量や高度な数学の技も
月尾嘉男に備わるカヤック操縦や航走体験も
ともに全く持合せないまま人生の宵闇を漂う筆者には、身に余る危険であるのだ。
総流長のほうは数値のズレがないから、問題なしとはならない。
それぞれが実測体験値をもって記述してデータが合致したかどうか?
一方が他方からまるまる写していないと言い切れないからだ。
そこで当初に立ち戻り、腹を決めよう。
データは大勢を掴むための手がかりと想えばよい。
抑えの最初=阿賀野川は、この狭い日本列島で上位10位以内を占める大河なのである。
次なる抑えは、川の流れる方位である。
河川方位について考察することが、どれだけの意味があるか?
その答は、今日ただ今思いつき・動き始めたことだ。
よって最初の事例たる阿賀野川1つの方位を知っても、論ずることは少ない。
事例を集積した後に何を語れるであろうか?
さて、作業に移ろう。
川の流れる方位を単純化するための簡便計測法を捻り出す。
まず河口に立つ。
次に源流点を視認する。
最後に河口と源流点とを直線で結んで、方位措定線とする。
阿賀野川の方位は、磁北プラス西に3度偏倚となった。
さてこれから。少し面倒だが、筆者の独断と偏見にお付合い願いたい。
簡便計測法と謂えども、計測諸元の明示は必要である。
1、 河口は、新潟市信濃川河口付近とした。
・・・・・現在の阿賀野川の河口は、信濃川の流れと無関係であるのに。何故、上記としたか?
     それは本来の自然の姿に立ち返って考察したいからだ。
    ○ 江戸時代享保14〜16(1729〜31)年の間に、阿賀野川の河口は信濃川の流れから切離される結果となった。
    ◎ 新発田藩は松ヶ崎<現・新潟市内>河口での分流を計画し、享保14から掘割工事を始め・翌15に工事は完成した(川幅30間)。
    ◎ しかし、翌16年春の雪解け水が人口河岸を崩し・一挙に川幅は150間に拡大した。
    ○ 切っ掛けは掘割工事であるが、結果は設計を遥かに越えるものとなった。人知は自然の前では如何にも脆い。以後永久に人為プラス自然の力を以て阿賀野川信濃川の河口は分離された。
2、 源流点は、燧ヶ岳<最高点2356m>と定めた。
・・・・・想定信濃川河口から阿賀野川の複数ある源流点を視認することは困難である。
     阿賀野川の場合、上述のとおり140超の上流があるので、最長支流となる只見川の源流である燧ヶ岳を採用し、源流点と定めた。
    ○ 河口からの視認が困難なので、地図をもってプロットする簡便策に頼った。
ここで採用した「最長上流の源流に当る山頂」&「地図の代用」は、今後とも方位措定線決定のための共通ルールと致す所存である。
さて、今日の紙数はとうに尽きたが、河川方位を計測したいと想うに至った背景を述べよう。
列島地図を眺めていて、
 日本海側の川は、北の河口に向かって・より南に聳える山並みから流れ出し。
 逆に太平洋側の川は、南の河口に向かって・より北にある峰々から流れ出す。
 そんな傾向があるのではないか?<例外はあるもの>と想ったからである。
この仮説が成立つかどうか?
それは今日始めたばかりだから、論証されるのは遠い将来のこととなろう