おもう川の記 その10 阿賀野川と阿賀川

今日は、阿賀野川の続編である。
この川との出逢いを記憶に辿ってみた、何と半世紀の昔になる。
高校を卒業して親元を離れた、ある意味記念すべき50年前なのだが。
親元でぬくぬくと18年間のんびり育った少年は、情報封鎖の僻地世界から荒波のような大都会に、単身放り出された。
と言っても、目的地へほぼ半日の汽車の旅をしただけだが、桃太郎ならぬ吾が身にはトホホの「鬼界渡り」であった。
その頃、何らの意図も無く・予備知識も無いまま,ぼんやり車窓から眺めた川
それが今想うと、阿賀野川との最初の出逢いであった。
その後の人生で、さまざまな川や河を遠望し・時々に河川をめぐる情報に接して来た。
その体験に照らしても、この川は美しい。だからこそ、出逢いの日を忘れずにいるのであろう。
親元を離れる=孤独に生きる・人生の最初の試練は、思い出の中を辿ればスムーズにスタートしたのであった。
その半年後の秋には、「鬼界渡り」暮らしに自信を得たらしく、目的地の無い「一人旅」にふらりと飛び出した。
生活費が割安の学寮生活と奨学金なる前借金頼りのその日暮らしだが・・・
若かりし日は、何事も。とりわけ深刻なことは先送りする、奇妙な暮らしでもあった。
聖徳太子の紙幣数枚とほぼ同額の残高が記載された=虎の子の郵便通帳を持っただけ、数日のショート・ジャーニィであった。
当時まだ万札は発行されてなかったかもしれないし、1ヵ月の生活支出額もまた1万円を超えることは無かったように記憶する。
さて、その思いつき旅・無計画の出たとこ訪歴の漂白は、過ぎてしまえば日光から裏磐梯までの回遊であった。
当時=東京オリンピックの当年であるが、このルートを結ぶ会津鉄道も東北と関東を結ぶ高速自動車道路も無かったと想う。
その頃観光旅行そのものが、今日ほど盛況でもなく・高度成長の経済最優先時代の最中だから、僅か数日と云っても連続して休んで旅に出る人がどれだけも居なかったはずである。
それに未確認だが、観光への取組みが早かったのは、宮崎と福島くらいで。少なかったように感じている。
いささか脱線したが、この度の阿賀野川阿賀川の水源確認作業で、再認識または新発見した事実が幾つかあった。
人生最初の放浪旅で通り過ぎた栃木・福島県境と裏磐梯から見上げる四方の山々が、いずれも阿賀野川阿賀川の水源域であった。この度そのことに気がついて、大袈裟に不思議な因縁を感じた。
あれから50年、終始でまかせに無計画・無記憶の漂白の旅を、つぎはぎに続けて来た。
思い出空間域は、下記のとおりである。
裏磐梯尾瀬。猪苗代・五色沼・スカイバレー・八谷街道<米澤〜喜多方方面へ抜ける間道=別名会津道路とも>・六十里越<新潟県魚沼地方〜会津へ抜ける間道>など・・・・ここでの間道とは、単純に山越えを厭わない最短道路の意味でしかない。
それにどこも偶然だが、複数回通過している。
ここまで書いて来て、しまったと思った。
吾が田の蛸壺めいた・いささかノスタルジック過ぎる話を長々聞かせてしまっている。
それで言い訳めいて言う。
この『おもう川の記』シリーズを始めたのは、3ヵ月前であり。
この阿賀野川扁は、シリーズ3つ目の川だが、始めてみたら意想外の大河であった。
既に書いたが、船江<新潟市の旧名称>や会津の地元では、実際「大川」と呼んでいる。
だからこそ、阿賀野川の水系全体を総覧しておく必要を感じた。
簡略であっても一度そうしておかないと、これからの説明や理解に支障があると想い。この月初め以来あれこれ構想をめぐらしつつ、図書館で資料集めした。
それもまた筆者のヨコ紙破りと云ってしまえば、それだけのことだが、、、、
最上川のように数年前から企画し何度も訪ねつつ・未だ書き始めるに至らないのと違うが、少しばかりホッとしておきたい。
一見無駄な脇道での道草も。過ぎてしまえば落着くべき位置に納まって、スッキリ。
それでも意図した取材が無い分、繋げれば・繋がる程度の目の粗さでしかない。
割切ることとした。
長い間の探訪の寄せ集め記憶に基づいて、下記の3点に要約したい。
さて、阿賀野川水系である。
前にも書いた、阿賀野川新潟県境から河口までの名称。その川はそのまま福島県内では阿賀川と呼ばれる。
1、 この2つの川の名称変換点に特に呼び名はない。あえて呼び名を探し・仮称=鳥井峠付近としておこう。
   JR磐越西線磐越自動車道・国道49号が、それぞれに川筋とも折重ならんばかりに競って狭い地峡を通過する。
   鳥井峠は、国道49号<古く若松街道とも呼ばれた>の県境地域に当り、標高は280mである。
2、 列島の背骨に当る高い山の連なりが、南北に走ることは周知だが。鳥井峠は、それに該当しない高所点である。
   背骨山脈のことを東北では「奥羽山脈」と言う。
   分水嶺でもあり・秋田=岩手 新潟=山形とそれぞれの県境でもあるこの高い山の連なりは、3県県境に立つ飯豊山<いいでさん・2105m>の南斜面を通過したところで、山並みの方向が急遽変る。東に向かって進み、山形=福島の県境となる。
3、 会津は、福島県内にある。
   会津の地に降るすべての雨は阿賀川に集まり、終には日本海に注ぐ。
   会津の気候区分は日本海側のそれに属す。
   さて、奥羽山脈だ。飯豊山から吾妻山<あずま・2035m>まで=目のこ40 数キロ 東に向かっていたが、吾妻山の更なる東方約10kmにある一切経山<いっさいきょう・1949m>付近でまたも方向転換する。
   「奥羽山脈」本来の山並み軸である南北方向へと復帰する。そして、この高所ラインが阿賀野川阿武隈川分水嶺を形成し・会津中通りの区分界となる。
今日はここで筆を置くが、ここに掲げた3つの要約は、周知の事実であり。ことさら目新しい事実ではない。
できる限り簡略に記述するつもりながら、拙い筆の運びで、意を尽くさないものとなったようだ。
脱線気味だが、県界の設定が妙であると云わざるを得ない。
明治政変において会津藩の果たした役割が、地理学地形上の合理性を歪めた感がないでもない?
そのことは、後に只見川の編でも詳述するが、尾瀬ケ原の中間線上に3県境を設ける意味が。果してあっただろうかとの疑問をも招く?