ジジィ専科 No.7

* 前チェック しっかりやらずに  墓穴掘る
   リケンがイケン  トウデン気質
〔ジジィのヨコ睨み〕
今週メディアが騒いだのは、いわゆるスタップ細胞の発見報告をめぐる報道であった。
メディが騒ぎ過ぎるのは、資本主義的当為であり。染着いた体質・気質だから、電波の使用を認めてしまっている以上
已むを得ないのだろうか?  腹立たしい限りである。
右のものを左に、受流すだけのメディアなら、サルやゴキブリでもできる。
システムが複雑化した現代だからこそ、雑音・騒音の世界から如何に回避するかを伺わせる見識ある報道姿勢を期待したい。
成行きと見通しにおいて困難はない、、、、スタップ細胞発見、それで一件落着である。
発見されるであろう
今は未だ検証行動の遂行過程であるから、然るべき静観期間内である。
その意味において、外部が騒ぎ過ぎるのはどうか?と想う次第である。
ここで言う外部とは、理研以外のすべてを言う。
かく言う筆者もまた、過たず外部騒音源の1つでしかない・・・・
さて、外部騒音源はただ沈黙すれば、それで良いとならない。
それで、以下に論ずる。
小保方さんの人権を保護する点において、如何にも列島の権力機関らしい不手際がある。
列島を代表する公的研究組織として、恥ずべき後進性を保つ。国際的に落ち度・失陥である。
ここでは、そのことのみに絞って論じたい。
研究リーダーなる肩書の公務研究者と組織との関係が、いま一つはっきりしない。
研究ノートが2つだけだった=この矮小な報道は、配慮を欠く報道姿勢の1である。
ノートの数がもっと多ければ=よい仕事を成したに繋がるわけでもなかろう。
研究職は、量的ではなく質的要素に深い意味がある。
メディアの覗き見趣味が、透けて見える。何とも低俗である。
正しい報道姿勢は、雇い主である理研が、研究者個人に課した日報・週報・月報の提出義務を果していたか?それとも怠っていたか?それを掘起す報道であるべきだ。
そもそも公務遂行は、全階層職位者に対して漏れなくオフィシャル・レコーディングを課されるべき職務である。
その点で日本の慣行は、公務に甘く・かつ高位の職位に対してルーズであるが。
他に目を転じても職位に応じ目こぼしや例外措置がある例は、世界のどこにも見当たらない。
文書記録主義の確立は、一見矮小だが。この国の高度化を進める基本要素の1つである。
そもそも理研は、公的機関である以上。研究リーダーとして私人を雇い上げる際に、義務規定をキチンと示し・誓約させていたはずである。
そしてまた、当然にその私人が博士号を有する研究的人員であれば、その資格の正当性やそれに見合う能力を備えているかの資格審査について然るべく手順を踏んだはずである。
事後的にそのことを覆すのであれば、管理的立場の者の責めは免れない=それが社会一般の常識である。仮に公的権力機関なるが故に、その常識から逃れられると想うなら、それこそがアト出しジャンケンそのものである。
その点が、まさに外部からは知りがたいが。
後日・後手を踏む事態に陥ってから、おっとり刀でやっつけ調査を急ぐから。トカゲの尻尾切りのような醜態をさらすことになるのである。
外部に騒がれるのは、理研の本質つまり列島の公的機関に存在する共通の資質たる欠陥=「後出しジャンケン」慣行
=即ち度を超す人権軽視にして組織防衛を最優先とする基本気質。そこにこそ真の背景たる宿痾がある。
一言で言えば、それはリケン=理研内部の体制が、イケン(=関西語ではアカンと言う。)から、そうなる。のだ。
その体質・気質は、全国民が2011年3月11日から今日まで、継続してずーっと見て来た。
一言で言えば、トウデン気質・体質である。

〔爺ぃのナナメ歩き〕
トウデン気質・体質の中核にある特徴を3点に絞って列挙しよう
1、人権軽視・・・・もの言わぬ最大多数たる国民を無視するクセに繋がる
2、組織防衛・・・・現状をそのまま維持すること。それ以外を考えない。その結果として、改めるべきことは皆無であり・過去の事についてもまた反省すべき要素がないとの立場を貫く。傲慢さ
3、集団は護られる・・人格破綻者のみから成る集団が抱く妄想 → 大きな誤り
こような特徴的生き方は、明治人に多く見られた野蛮の思潮である。
その思潮は、明治政変から2011年3月までなら、ごく当たり前に列島内には存在した(=国内的特殊事情〜不祥事認識まで。と評価の腐敗度・全否定まで。人によりさまざま)。
しかし、3.11以後。行政府とトウデンの営為が、天災を契機に明らかにされた原発不祥事=「人災」であると確定した。
しかも世界規模で公認された。
この国の”権力”に備わる「アトだしジャンケン=慣行。それはトウデン気質・体質と同じ国民的慣行だが」ところの悪しき国民性は永久に放棄されたはずであった。
しかるに、いかに研究機関が世間擦れした存在であるとしても、3.11以後3年も経過した今日の理研の体たらくは、醜態と云わざるを得ない。
明治的野蛮思潮は、軍制専制君主統治時代に樹立されたパラダイムに基づく。
今日では明らかに否定さるべき生き方だが・・・・
自己保身的に権力迎合に走る人間は、いつの時代にも消えないものである。
「長いものに巻かれよ」なる 処世訓まがいの決まり文句もまた生き残っている。
そして、いつまでも死語化しない・困ったコトバがある。
『国家』を”単なる国の意味”として、無頓着に多用する大多数がいる。
だがしかし列島で使われる文字は、表意文字であって・表音文字ではない。
『国が家である』との意味に通ずる文字を漫然と使用する迂闊さに気がつくべきである。
家父長的肩書を持つ個人が、君臨統治し続けるとの誤解を招きかねない。
その結果敗戦からもう70年になろうとするのに、人権擁護において未だ後進性から脱し切れていない。
この極東のごく小さいシマグニは、一人一人が輝く存在たらしめる人権尊重の社会を達成して、始めて。”今日の沈没状況から”脱却できるようになるであろう。