か麗の島 No.9

關仔嶺温泉から嘉義に戻るバスの中である。
この日の情景は、よく覚えているほうである。
1週間強の台湾旅行中、1度も雨に降られた記憶が無い。
これはある意味珍しいことであるらしい。
新聞・ラジオ・テレビと縁がない旅暮らしだから、自己の体験が全てなのだが、、、
決して雨の少ない土地柄ではなさそうである。
さて、住民生活バスは、バス停留所に下がっている時刻表どおりほぼ正確な時間にやって来た。
前の扉が開いたので、そこから乗込んだ。
運賃箱が置いてあったが、運転手が何も言わないので、そのまま通り過ぎて、中間付近やや奥の空いてる席に座った。
降りる時に気がついたが、運転手の前の扉は、ある地点か?ある時から?降り口扉に切替っていた。
長い人生バスに乗るが、走行途中に扉が乗車から降車へと切替られたことが無かった。
想像だが・・・・市内に入り終点が近づき、均一料金になるからだろうか?
言葉がない旅だから確かめようがない、それだけのこと。
ざっと半日ほど乗車していたであろうか?老人の旅行は、自然体で眠りかつ目覚めるし。
そもそも緊張が長続きしない年齢であるし、、、、
熱帯の田園風景は,実に快く・寝起きがスムーズでもある。
少し時間軸が戻る。
バスに乗込み、後方の席に移動するまでの僅かな間だ。
突然 「カギ」 の声が発せられた。
耳では聞き取ったが、咄嗟に意味を解することはできなかった。
リュックを置き、席についてからゆっくり考え始めた。
耳に届いた声は、女性の声であった。
車内を見渡す。前半分くらいの席が埋まっている。
老年の客ばかり。やはりやや女性が多い。
椅子は進行方向に向いていて、運転席の後ろ中程に2人続けて老女が座っている。
この2人のうちのどちらかが声の主であろう。
当方は、やや大きめのリュックを担いでいるから、一目に旅行者と見えたであろう。
姿・形から,日本人はやはり日本人に見えるはずだから、バスの行き先を日本語読みで案内してくれたものと善意に解した。
そのような意味の独り言を少し大きな声でつぶやき、最後に「ありがとう」と添えた。
車内に,何の変化も・何らの反応もなかった。
バスはただ淡々と走り続けた。
窓の外は、白河と言う名である。緑濃い田園風景が続いていた。
バスの進行方向は、目的地=嘉義市の方”北”に向かっている。
地名の一致から、東北の白河を思い出していた。
その昔、何度か・何回かに分散して訪ねた記憶の中の白河である。
F1原発事故ゼロ・ポイントのある福島県は、さまざまな課題を抱えているであろう。
その暗澹たる想いを口に出すべきでないとは想うが、同じ東北人だ、そう割切って善人ぶる立居振舞いも出来そうにない。
思い出の中の記憶をストレートに吐出すしかない。
列島の白河の関は、2ヵ所あった。
別々の日に訪ねた。
芭蕉が通過したのはどっちの方か?と言う疑問は、自分なりに未だ決着していない。
またいつか訪ねたいと想っている。
記憶に浮かぶ1番のことは、源平咲のモモの花である。
園芸の知識も覚束ないから、そのような言葉・物言いがあるか自信ないが、、、、
遠目で1木に紅・白2色の花が咲いているのをこの地で始めた見た。
ウメもサクラもそれぞれ悪くないが、筆者はモモの花色つまり桃色が好きである。
白河の関のことを語ると、未だ果たさずのままとなっていることを自然と思い出す。
勿来ノ関である。「なこそ」とは、これまた東北の心を逆なでする。
『もう来るな』と云う意味だと筆者は理解している。
律令時代〜平安の頃であろうか?白河の関や勿来ノ関の北には、縄文系人が住んでいた。
両関の南には、弥生系の人達が住んでいた。
狩猟採集と稲作などの農耕と、この2種類の列島人先祖たちの生産手段は互いに大きく異なっていた。
生活の糧を得る方法が異なると、その社会の道徳観念も集団規範も異なるものである。
互いの相違点だけに着目すれば、両先祖たちの反目は避けられない。
互いに差別し合っていたかもしれない?
「河北」なるコトバがある。
大河の東西南北に因んで,産み出された地名が多いようだが。全てがそうとも限らない。
以下は筆者だけの勘違いかもしれないが、一部の地域では差別に対する反発から生じたコトバであるらしい。
明治新政は、ある意味で律令制度の復古でもあった。
ここでの”律令”とは、縄文系・弥生系の融合化が進む以前の時代相を指す
東北列藩は、分離独立の方向を模索して動いたが、西南雄藩の急進的行動によって軍事蹂躙された。
歴史に”IF”はないが、起きたことの行過ぎに対する歴史批判は許される。
あの「倒幕戦争」は、明らかなる過剰攻撃かつ破壊行為であった。
西南雄藩の背景に英国やその手先なる死の商人などの画策があったと見るべきであろう。
西欧強国による代理戦争たる側面すらあった。
倒幕戦争終結後に、勝者たる西南雄藩の小者愚物が、敗者たる東北列藩に向かって発した「白河以北一山百文」なる放言があった。
その故事を踏まえて生まれた「河北」なる短縮語は、あからさまなる差別を想わせる。
他方 台湾の地は、モザイク状に多くの人種・民族から構成されるが、住民間に差別の心がほぼないように想えた。
南の地は、陽光燦々と暖かいが、住む人の心も相応の広やかさを備えていると想った。