おもう川の記 その7 荒川と奥山庄

まだ新潟は荒川の水面を眺めている。名付けて第5節である。
想えば幼少の頃からそうであった。大道は往かず・裏道が大好き・道草や寄り道が専門であった。
小学校の頃は、言葉使いがおかしいと叱られたこともあった。
その詳細はこうである。
そもそも道草や寄り道と云うのは、出発点と目的地=つまり我が家だが=を結んだ線上から僅か膨らむ程度の迂回やルート上での経過時間の遷延状態を言うらしい。
その点 吾が寄り道も道草もスケール?の点で,桁外れであった。
吾が町は中筋を大河が流れ・更に唯一の橋が町の中心にある。
そんな環境を承知しながら、誘われて行った海浜遊び。
はたと気がついて、日没直前に緊急帰宅モードに切換える。
その海浜は実は対岸に当たる。向い岸に我が町内は遠望されるが、橋が作リ出す V字図形の最短ルートは実に遠かった。
日没直後に全員集まって夕食を始める家であった。
最悪でも、主が食べ終わるまでに帰ること=それが昭和30年代の厳しい父親像であった。
2里近い道を孤独な長距離ランナーは、そこに待ち構える2重の恐怖を味わいつつひた走った。
闇の恐怖が消えると同時に、第2の恐怖が炸裂した。とにかく いたく叱られた。
思い出は想いでしかなく・当人に与えた学習効果としては、イマサンだ。
さて、荒川だが、古名を関川と称したとある・・・・・角川・地名辞典Vol.15新潟県766P右=関川村の由来に因んで。
新潟県に関川と呼ぶ川が別にある。あの直江兼続に因む直江津にある河口に注ぐ川だ。
直江の家は、上杉氏に仕えたが、その地にある春日山城で名を成したのは,かの川中島の戦い武田信玄と争った謙信である。
関川は流長64km・流域面積1,143平方キロ 妙高山黒姫山火打山などの戸隠山塊と長野県信濃町にある野尻湖を源流とする1級河川である。
なお、新潟県は、日本海に面し・長くかつ大面積であるが。
     春日山城のある頸城地方=西の端を上越
     荒川源流の朝日・山北地方=東の端を下越 という。
旧・国名=越後時代の名残だが、現代にも生きる地域の呼び名である。
その直江兼続だが、戦国末期から幕藩期の初め頃にかけて、上杉氏の家老職として直江津会津・後に彼のみ米澤城主・更に会津→米澤への主家転封に伴い順次移動した。
つまり新潟の西端から始まって、新潟の外周を一周しつつ、東端の隣地米沢に落着いたから 主家・藩ともども荒川に因縁がある。
さて、荒川と関川 それぞれ東と西を流れ互いは遠い・なのに河の名を共有する。
妙だ?何となくクロスする・隠された何ものかがあるぞ・・・・
この際思い立ってインターネット検索してみた。
案の定、こんがらかって出て来た。
上越関川の一部を荒川と言う”などのフレーズがヒットした。
文献による裏付をとる必要を感じた。
話題のビットコイン同様 IT環境の信頼性・吾が理解度を含め、おおいにに引きたいものを感ずる。
数日トライするも、図書館での成果は空振りに終った。
その代わりと云うのもなんだが、新潟県が生んだ歴史・地理の擡頭=吉田東伍(1864〜1918)の見識に縋ろうと想った。
彼は新潟県出身の碩学、学歴に見るべきものが乏しいにも係わらず・成し遂げたものは実に大きい。
天賦の才に努力が稔った人物<本稿ではNo.4で紹介済>に、「古代の船舶の種類およびその発達」なるタイトルの論文がある。
日本の船舶を通史的<古代から江戸期まで>に総覧した著述の中に『関船』なる見出しがあった。
いつも吾が理解は勘違いを伴なうが、少し引用するとしよう。
中世関所のある津で用いられた船(=出典は養老3年・紀)のこと・本来は太宰府御用船=御用(=官設)渡海場のことを『関』と称したことに由来したとある。
吉田氏が言うには、関船は以後千年に及んで列島全域を代表する船になったと言う。
櫓40丁立ち・矢倉あるもの=より大型を関船、櫓がそれ未満・矢倉なし=の小型をハヤブネまたコハヤと区分し、元寇に立向かい・悪名高い倭冦が乗船して大陸を襲った船もこれに属すると書いている。
ただ、関船の長い建造の歴史の中に韓舟や唐船の影響に触れ・外洋船=船底が尖り形・川船=船底が平たいことについて言及するも、関船やコハヤの船底が具体的にどうであったとは書いていない。
以上が引用である。
列島は四海波だが、海洋民族に非ずして。長く安住・定住の地たる海岸に留まる海岸民族に終る運命だなと,筆者は感じた。
一般論として関所を設置する狙いは何か?
まず通行税を徴収することにある。その言い訳に管理?を行う。
民間流通業者は、自由を欲して必死に回避策を考える。
以上が筆者風の世界通史的要約である。上に制策・下に対作ともいうが・・・・
翻って列島の関所施設だが、単に河川としての大小によらず置かれたであろう。
迂回ルートの無い河川ネック部位・陸上輸送との結節点・つまり海河港など徴税の効率を重点に置かれたはずである。江戸期も口番所などと名前と設置場所を替えて存続したようだ。
さて、荒川だが、関川村の桂・地内に、かつて関所が存在したことを示す地名が残り・地域伝承もそれを裏付けていると言う。
関所が、当時の為政者が仕切る官署である点において、関船が入る川である。
関船が入る川だから,関川と呼ぶでは。あまりに単純であろうか?
ただ「せき」なる音は、川に限れば。「堰」なる文字もまた該当する。京都の桂川の別名もしくは上流辺を大堰川と呼ぶが、渡来人技術集団を率いた秦氏が、川の流れを調節するために構築した人工堰に由来する名称と記憶する。
そろそろ紙数が尽きる
以下は想像であるが、荒川に関所が置かれた背景は、何であろうかを考えてみたい
鉄工業の存在にある。と措定したい
それを第1の理由とし。
次に置賜地方へと繋がる後背地物流圏のビッグ・スケールも考慮したい。
がしかし、この地方は、この時代の人口重心である西日本から遠い=阿賀北以遠東北の僻地だ。
流通経済が、及んだ時期を江戸時代より以前とすることにはいささか躊躇を覚える。
その点では、第1に掲げた鉄工業の方は、農具・武具・家庭調理グッズと必需性と裾野は大きい。
ここで言う鉄工業とは、前の稿No.5で触れた鋳物師の仕事のことである。
井上鋭夫氏の著書「山の民・川の民」155頁に奥山庄要図=鎌倉時代が掲げられているが、そこに金屋&鍛冶屋の地名が記載されている。
この2つの地名こそが、鋳物師集団が居住したことを示している。
因みに、筆者は何度か現地を訪問しているが、金屋&鍛冶屋なる集落は現存する。
水田穀倉地帯のなかに点在するごく普通の町家集落に過ぎないが、鉄工業そのもずばりの歴史的地名を保存しており意義深い。
以上で筆者が主張したいことは尽きる。
鎌倉時代の荒川流域周辺図を眺めたついでに、気がついたことを述べておこう。
鎌倉期と現代では、荒川の流路が全くと云って差し支えないほどに激変している。
鎌倉期の荒川は、河口付近の手前=平野部に入ってすぐの所で2筋に分流する。
分流が造り出す川中島の地内に、上述の鍛冶屋に加えて”大津問”なる地名が見られる。
「問」なる地名は、そこに運送を専門とする業者が居たことを示す。しかも「大津」は、琵琶湖流通の要の地=大津の出先支店を暗示する。
「問」は平安期後期頃に出現した新業態であり、主業は荘園で徴収した年貢米を所有者の元へ届けることにあった。
琵琶湖を根拠地にする水運集団は、日本海沿海域から京・大阪までを支配的領域としており。
敦賀から琵琶湖上・瀬田川宇治川・淀川までの水運を抑え・列島最有力の運送集団でもあった。
現代は1本の川筋であるから、この約650年超の時間軸において増水・洪水などにより流れが変化しているようだ。
近代の河川改修=つまり高水工事による堤防構築を指す=の際に、北側の副流路を残し・南を流れる主流の方を陸地化した事態もまた考えられる。
明治30年代に始まる河川改修は、列島改造事業の嚆矢とも言われる根本的な国土破壊の始まりだが、歴史的地形の復元を阻むと言う点でも大きな障害となっている。
最後に、上越市の河川・砂防を担当する部署に問い合わせた。
上越の関川を荒川と呼ぶ事例はないとの回答であった。
ひとつだけ面白い事実を聞かされた。日本海河口に最も近い橋の名が”荒川橋”と命名されているそうだ。
上越の関川は、上・中流域に妙高高原がある。日本有数の大規模地滑り地帯である。ついでだが間もなく北陸新幹線が開業・走行する沿線に当たる。
今日はこれまでとします

水と緑と土―伝統を捨てた社会の行方 (中公新書)

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