か麗の島 No.8

關仔嶺温泉に行っている。
たまたま投宿した温泉旅館は、温泉地の入口にある。
それでも入口と前面道路とは、狭い平地をほぼ共有している。
建物の裏側には急峻な崖が迫っていて、それこそ何人も立入る隙間がないようである。
遥か崖の上の方は全く見通せないが,対岸の様子から想像するに後背地は熱帯の密林であろう。
熱帯の鬱蒼たる密林は、日頃殆ど見ることのない景観である。
よって、この感想記述は、必ずしも適正とは言いがたいものがある。
その緑濃い山腹を蛇行しながら渓谷が切込んでいる。
谷も深く・崖が険しい。
渓谷を縫うように川と道とがせめぎあうように奥へと続く。蛇行と急傾斜とが折り重なっていて、山の奥を見通すことが出来ない。
そのような山・谷の様相であれば、山肌は露出して岩盤や赤土を露出していることが多いものである。
だがその想定も筆者が持つ温帯的体験による固定観念がもたらすものかもしれない。
關仔嶺の山・谷は、そこが少し違った。
熱帯的な植物ボリュウムの過密とでも言いたいような、ある不気味さをもって迫って来る。
その日は泥湯の内湯を持つ宿に泊まり、夜の会食は近くのレストランに行った。
そのレストランは、宿を出てすぐの道路を向かいに渡り、川に架かる橋を越えて行く。
そこが数軒の商業集積から成る商店街であった。
温泉に付きものの日本的喧噪は無かった。
一軒だけかなり古そうな和風建築の建物があった。
和風は、余計な飾りがない。それがとてもよい。
かつての植民地時代の遺構であるらしい。日本語書体の看板が掲げてある。
一見して山小屋風の建て方であった。鄙びた温泉を通り越して、山の出湯に来ていたんだと想いなおした。
焼畑や縄文のルーツに近づいている実感がある。
山小屋風日本旅館の並んで土産物屋や食堂が、軒を連ねているように見える。
だが、灯りが点いているのは僅か1・2軒と商店街の奥の方は、寂しい感じであった。
それでも、そこに立ち止まったまま、灯りの点かない商店街の奥を、型どおり覗いてみる。
やはり暗がりの中には、観光客らしい出立ち・風情の者はおろか 全く人影すら見なかった。
この日の昼に内湯の中で見た若者の塊りこそが、過半数に当たる貴重な群人(むらびと)発見だった。
まずは寂しい・日没間もない・宵くちの商店街であった。
そこで更に踏込む気もなく、入口から2軒めのレストランに入った。
レストランの中に入るとすぐに、誤ったイメージを修正する必要を感じた。
その飯屋は我らだけの貸切ではなかった。
場末に相応しい土着の風情を漂わせた独酌の男がいた。
ついで、やおら真ん中にデンと置いてあるカラオケ装置が目に入った。
我らが座る位置は、まずそれをどかし・消したままの頭上照明を点灯する。
やれやれ やっと設営が済む・・・そんな位置取りであった。
可動式のカラオケ装置だが、なかなか移動してくれなかった。
住民にして常連の酔客が愛好する装置なんだろうか?
さすが、日本人の発明にして、偉大なるイグ・ノーベル賞を受賞した文明の利器?である。
そんな所へ座ろうとする発明者の同胞が客として来店し、そこまで席が塞がることがまず無いのだ。
ビールが置いてあるかな?と一抹の不安がよぎった。
とにかくも飢えを満たすことが出来て、その夜は明けた。
蚊遣りも消えることなく朝まで働いたようだから・・・夜じゅう格別におドロくこともなかった。
因みに、”ドロ”の位置に当てはまる字は、泥湯の關仔嶺ですから・・・・・やっぱり 泥でしょう
朝食だけは付いていた。あてがいぶちの食事は、気楽でよい。
この手の定番朝食はそのうちトウヨコ・ホテル?No チョイスなどと、コンチネンタル・ブレックやアメリカン・コフィ並の呼ばれ方をするかもしれない。
でもないか・・・・イグ・ノーベル賞候補になりそうだが?
食後の散歩に出た。空模様はニュウトラル・すぐに落ちて来るものはなさそうだったので気の向くままに歩き出した。
上流に向かった。湯気が出て・辺りに立ちこめる。そんな景色があちこちに見える。
やはり温泉地に湯煙は付きもの。
結構な急坂だが、階段続きの散歩道が道路と切離して設けられている。
汗ばむくらいの登りになっていた。何とかクリアーして、階段が終わった。
ちょうど一息つきたいフラット・テラスだ。
そのジャストの位置に公園があった。
だがしかし その広い公園は、ほぼ全面が工事途上にあった。
それで意欲は失われた。
空を見上げた。降りそうに見えた。
自動車が走る道のサイドに木道らしい結構が見える。
高い位置から低い場所はよく見える。
ロードサイドの樹木の上に点々・・・花が咲いているらしい。
行ってみた。
見たことのない・熱帯らしい・名の知らぬ花、クリスマス・ツリーだ。
午後、バスに乗り、来た道を還った。
この温泉の思い出は,まず泥湯だ。
泥湯の好悪は、人それぞれである。
吾が泥湯の思い出と云えば、あの若者たちの薄暗い中の眼の光である。
關仔嶺の方は当て字で、正しくは”監視令”と書くのではないだろうか?