おもう川の記 その6 荒川とバード女史

1月から始めたシリーズだが、今日で3月目には入った。しかし、今日のテーマも引続き荒川の続編=第4節である。
これまでも述べてきたとおり、メインテーマは、荒川源流の反対サイドに当たる内陸側を流れる大河の方にあるのだ・・・・
思わぬ方面で,ウロウロ彷徨う 申し訳なく思うばかりである。
このところの天候不順が、彷徨う遠因となっているかもしれない。
さて、先の稿で少し触れたが。新潟県関川村で躓いてしまい、当初の訪問予定地・最上の川面を見ないまま帰宅したことがあった。
そのとき現地で求めた小冊子、眼を通していたら、興味あることが書いてある。
前稿で採上げた井上鋭夫先生の著作に出てくる地名や伝承と重なるようでも、切口・観点が異なる? つい引き込まれる。
こうあれやこれや書いているのは、”申し訳なさ”を繕うためのエスケープをしているわけではありません。
おそらくこの地には、つい引き込まれてしまう。アトラクティブな事象が、多々備わるからだろう。
そんな気の利いたことを、筆者のような”うれない作家まがい”の者が、発してもあまり説得がないから、、、、
もっと説得力のあるエヴィデンスを掲げよう。
この関川から置賜地方へと抜ける道=ある時期から「米澤街道」なる名を以て呼ばれる道は、明治の終り頃に欧州の果てまで知れ渡った。
知る人ぞ知る・女流にして冒険系の旅行家、最も早い時代のパイオニア的人物と云えば、イザベラ・バードだが、、、、
I.L.Bird(1831〜1904 英国生まれ)は、1878=明治41年5〜12月日本に来ている<47歳>。
その遠征記録は、「日本奥地紀行」なるタイトルで平凡社から刊行(2000年)されている。
新潟港〜荒川流域を経て、内陸の置賜地方へと抜ける(同書・第17信→第18信)のだが、
今日の大里峠を山越えするため登りにかかる。
その途中の集落を道路事情が悪く孤立した土地だと酷評している。
ところが、山形県の奥地=実は赤湯だが=そこを”アルカディアの地”である、と一転して持上げる。
山登りの新潟と下りの山形とでは、その評価がスッポンからツキへと大変心する。
おそらくヨーロッパ人読者には,この辺りの記述が最も印象深いのではないだろうか?
とまあ、古代も中世も色濃く残っている魅力的な土地柄=阿賀野川より北に位置する東北地方と括って、まず間違い無いのだ。
さて、上掲の小冊子は「せきかわ歴史散歩」と言い、著者は地元で教育長を勤めた高橋重右ェ門氏。
この地に竹と藁で作られた長さ80mと、呆れるほど超ロングの大蛇を引っ張って歩く祭りがある。
地元に伝わる昔話=蛇喰(じゃばみ)集落に住む杣人忠蔵の女房”おりの”が、亭主が大蛇を退治し・後日内緒で食べようと隠しておいた蛇の塩蔵漬物を、知ってか知らずか・夫の留守の間に全部食べてしまい、大蛇に化してしまう。
ところが、昔話にまつわる地名や神社名やは実在する。という
”おりの大蛇”は、村人皆によって撃退されるが。その秘訣を教えた琵琶法師蔵市検校が愛用した楽器琵琶の現物すらも、大蔵神社に残っている。と書いてある。
そうなると、あまりに史実たる伝承の要素も備わっていて。蛇のお化けだけに背筋が寒くなるものがある。
ここではもちろんそのことに踏込まない。
活字化したストーリーを遠隔者がテーマとするは相応しくない。
耳タコの集落古老とは地元語でツウカア意思疎通でき・地名を聞いただけで足で踏んだ思い出が蘇る・そんな地べたの人のテリトリーだ。
筆者が考察したいことは、「蛇」と「鉄」の関係である。
大里峠に出没する”おりの大蛇”は、時々元の女房姿に戻って峠越えする琵琶法師から琵琶語りを聞いたりするのだが。大蛇に変身した時 身を隠すための大水面が欲しい。貝附のせばを堰き止め・関川郷を泥の海に替え・その中に棲みたいと考えている。
そのことを関川の村人に告げると間もなく、琵琶法師は息を引取る。村人はただちに対策を採り始める。村を挙げて鉄をかき集め・釘を造り、大里嶺に釘を打込んだ。それで大蛇は苦しむこと7日・遂に死んだという。
蛇を神と祀る人がいて・それは金属製造者であるが・銅の方だと言う<畑井弘・物部の伝承=講談社学術文庫2008刊行>。
銅も鉄も列島にもたらしたのは渡来民・技術者集団だが、銅が先で・鉄は少し遅れる。
その時間的近接が、日本金属史と大陸金属史との間に存在する微妙なズレである。それを生業とする当事者にとっては、深刻な死活問題であったから。銅屋と鉄屋の間では何らかの対立・争闘があった。と考えるべきであろう。
ここに昔話の解釈の余地が生ずる。
敗者の蛇をもって即ち銅が鉄に敗れた、と解すべきでもないし。
より後世に確立した技術である鉄の方が、銅より優れた金属である。と解すべきでもまたない。
金属としてそれぞれに異なる”属性”を備えるのであるから、適材適所の用途・適用を考えるべきである。
剛性に優れた方の鉄に軍配を上げる人が目立つが、金属すなわち武器・兵器オンリーの軍制・君主独裁亡国史観に立つ側の単線思考頭脳者の鉛性頭と呼んでは。言い過ぎかな?
さて、そろそろ紙数が尽きる頃あいだ。
上掲の大蔵神社がまた、その地には実在する。
祀る神は、須佐男命・大国主命櫛稲田姫命と書いてある。
これもまた、銅・鉄伝播時代の時間軸でみれば、いずれも出雲系の神々である。
昨年は、出雲大社が60年式年遷宮であった。
東アジア地中海を挟んだ出雲の対岸は、この場合いろいろ複数ある。
テーマの地である荒川流域もそれに当たるし・韓半島もまた該当する。
出雲系の神々は、その源流地を以て新羅系とする説・伽耶加羅とも書く>系とする説・新羅伽耶のセット系にして記述する立場と概ね3様が見えている。
もちろん、そのどちらも認めない・純粋国粋であるとする見解(仮称ひょっこり瓢譚)もまた根強い。
その出自を時間軸・空間軸とも詳細に突止めようとする熱意が伺える。
そうそう上掲の小冊子に大里峠の新道開設のことが出てくる。
大里峠から海側の沼集落に至る新道を開いたのは、大永元(1521)年・時の米澤城主=伊達植宗<だてたねむね・但し植は仮の借字。正しくは扁のみ木→禾に変える>だ。とある。米澤街道の名称が起るのはこの頃であるとすれば確実であろう。
既にこの以前から、米澤と日本海は何らかの交流があったことが知られる。
水路で直接繋がってはいないが、米澤と荒川の繋がりは、相当に早い時代=おそらく古代からであることが伺える。
今日はこれまでとします

イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)

イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)

物部氏の伝承 (講談社学術文庫 1865)

物部氏の伝承 (講談社学術文庫 1865)