おもう川の記 その5 荒川流域の中世

今日もまた荒川の続々編である。
メインテーマは、山形の川である最上川あれこれと決めてあるが、隣の地=新潟の川である荒川の稿で激しくダッチロール状態が続く。
我ながら困ったものであるが・・・致し方ない。
前にも書いたが、最上川の源流地帯は「民俗の宝庫」であるとつくづく思う。
この最上川源流とは、明治以降の地域区分によれば、山形・福島・新潟の3県に跨がる。
荒川の源流部もまた,山形県内であり。その源流部の山腹は、主として日本海側斜面であり。その山腹を通り越して山頂に至り、分水嶺を越えた所が内陸側斜面すなわち最上川源流そのものである。
さて、前に紹介した書籍 『山の民・川の民』<著者 井上鋭夫・いのうえとしお 1923〜1947 日本中世史・社会経済史 新潟大学教授・金沢大学教授>だが、荒川を中世研究のフィールドにしながら、予想外の成果を齎し名著となった。
一般に中世と云えば、文献資料も少なく・コメをめぐる支配層と隷属土着農民との関係に的を絞った地域性溢れつつ閉鎖性の強い・言わば1パターンの面白くない分野と目されて来た。
その点、この著書の表題どおり、井上氏の研究はユニークである。
列島におけるコメづくり農業を主流と考える通史的世界観の中で、探鉱・冶金に従事する山の民や荒川の畔に船を浮かべて漁撈・輸送などを担う川の民は、所謂特殊職業者にして差別される存在であった。
この著書の圧巻部分を略述紹介してみよう。
荒川保と奥山庄との間の所領抗争が、正応5(1292AD)年講和[=和与〕が成立し、解決をみた。
その時、作られた和与状と絵図<反町三浦和田文書>が、古文書として残されている。
その史料の記述内容と現代に残された土地の記録とがどこまで照合・合致するか?にトライする調査が企画された。
1950年夏新潟大学の学生も参加して研究者が組織され、総合調査の形で行われた。
ここでの総合調査とは、寺社・堂塔・仏像・考古遺物・近世文書などの現物と現地に残る古地名・字名・民俗資料・宗教行事・古老からの聞取りなど。実際に採用された調査の方法を言う。
それまでこの国では、歴史研究と云えば明治以来デスクワークの所産だから、独創かつユニークな研究手法であった。
昼の間はそれぞれが各地に散らばって与えられたフィールドワークをこなす=自らの足を以て踏破しながら逐次現地で遺物を見い出す。
夜は全員一堂に会してグループディスカッションを重ねる・史料評価を固める・全体調査の中での位置づけを決めた。
当時の参加者たちは、その現地・現物重点主義のやり方を「ドサマワリ史学」と自称していたらしい。
そこから多くの後継研究者が生まれた。
筆者は必要個所をざっと抜読みしただけだが、650年前の土地の記憶が彷彿とする。
おそらく参加者は、ジグソー・パズルを解くような面白さを味わったことであろう。
調査開始から8年目の1967年に集大成研究論文が公表された。上掲の著書はその集大成論文の要約版だが、井上氏死後の1981年に回顧・追悼的に編集された。
以下は筆者による独断と偏見による理解だが、2〜3のエッセンスを述べる。
まず、荒川保(あらかわのほう)と奥山庄(おくやまのしょう)とを区分する境界標識である。
その地には、証拠の「ぼうじいし」が、言わば土地の記録として。今でも残っていると言う。
「ぼうじいし」=磅示石<磅の字は仮の当て字、本来の字=石扁を片扁に変える。漢和辞典に載るが・JIS第1・第2水準に見当たらない>は、
高さ8尺の花崗岩などで作られており・大人4〜5人をもってしても到底動きそうにない大きさ。将来の河川流路の移動・変遷に備えて置かれた意味もあったらしい。
次に「保」(ほう=律令制下の末端行政単位で、5戸を以て1保を成す。相互監視・扶助など治安・徴税の確実性を担保させる連帯の仕組。中国・秦の時代に始まる、保証なる法制用語の由来とも言う。また、平安末期以降荘園制における所領単位とも、また逆に国衙が荘園制の外にある地域住民に負担を求める際の課税組織のこととする説がある)と「庄」(荘園制における所領単位、頭に地名や支配者名を冠して呼ぶことが多い。奥山は現在・胎内市にその地名がある)との間の所領争いだが、その発生の背景は以下のとおりさまざま考えられる。
   ・ 支配者が異なる隣接した所領の間には何時いかなる時でも起きるトラブル
   ・ 律令制法規準の下にある公領=「保」と律令制の例外的法規準である私有荘園=「庄」との間に生じた特異な事例
   ・ それぞれを構成する住民層の違いがとても大きいので、軋轢が生じやすい相隣に当たる関係だ
         「保」は「川の民」など、他方の「庄」は農民層
         互いの生産方式・生活信条が極めて対立している。
         一方は、移動・越境生活が前提である特殊少数の手工業的技術者
         他方は、土着・定住を強制された隷属的農業労働者(格別の技術を持たない平均的単純労働の集合)
最後に、正応5年の和与状による互いの支配地境界線は、どのように決められたかを概括的に展望してみよう。
 ○ まったく新しく人工的に設けられることはなかった。
 ○ 既に存在した郷村境界や修験者が通る神仏登拝のための行道など、当時自明にしてかつ由緒に叶った存在として公知かつ合理の基準を以て共有された[相応しい境〕=前代が維持され・次代に引継がれようとした。
 ○ 「ぼうじいし」は、河川と原野との自然分界・修験者が通る山の尾根筋・行道修験者が通る道標にして、通過の際に簡単な儀式を行う場所であった。
 ○ 宗教・信仰上の霊石を以て示されたが、将来河川流路が移動・変遷するであろうことを前提とし・それに備える目的で置かれた。
引用書の独偏的内容紹介は以上である。
さて、中世と云えば洋の東西を通じて、宗教が支配する暗黒時代と要約されるが。
この研究論文集からも、時代の政治・経済・精神界の基礎に居座る宗教・信仰教団の強い権力性が厳然として立ち現れている。ことに気づかされる。
そして、中世世界と云えば、荘園制度による土地支配と農業生産であると農政史的に一律に把握されがちだが。
「荒川保」の例に見るように、律令制法規準旧勢力の下に生きている世界があったことを再発見した。
「荒川保」の知行権の対象は、荒川の漁業権・水運権・高山採掘権であった。
この中世の時代、律令制法規準下である国衙<=旧勢力>に残された行政権の及ぶ場所は、道路と水路つまり僅かな天下共通の交通路だけであった。
それでもその天下共通の交通路を、生産の場・生活の糧とする者たちがいた。
主に流通業務に縁の深い特殊職業者たち=金堀・鋳物師・木地師・檜物師・塗師・箕づくり・杣人・筏流し・紺掻(こんかき)である。
彼らは、一所懸命の地に根を下ろす在地権力とは異なる法概念の下に生き・列島規模で移動・採取することを許される権門・名家が発行したとする特許状的な書面を持ち歩いた。
特に金堀は、鉱石を求めてどこにでも出没し・鉱脈が枯渇するとともに消息を絶ち、川の民に職替えする不思議な存在であった。
彼らは万民共通の生活必需物を供給し、重宝がられる技術ある少数者であったが。逆にその不思議な暮らしのために差別される存在であった。
欧州世界に見られるユダヤ集団もまた、金属加工に長じた特殊技術集団として特定の場所に集住したそうだが、世界史的共通性と言えよう。
オリンピック開催地のソチに音が通う地名として曾地峠が知られる。
8号国道 長岡・柏崎間にあるが、今は道路整備が進んで、峠を避けて通るようになっている。
古く中世の頃、道を通って他郷に越える者は希であり・修験者だけが起伏の少ない尾根道を行道として使っていた。曾地峠もまた山頂付近のクロスロードとして,彼らの通交する道つまりそこが律令国衙行政権の及ぶ狭い線形の場所でもあった。
今日はこれまでとします

山の民・川の民―日本中世の生活と信仰 (平凡社選書)

山の民・川の民―日本中世の生活と信仰 (平凡社選書)