か麗の島 No.5

今日は前稿で予告したとおり、台湾先住民・列島縄文系人・列島弥生系人・相互間の近隣関係を述べる。
人類の生活文化は、基本的にその土地の持つ基礎的属性に逆らうことはできない。
列島の気候は、モンスーンである。
モンスーンがもたらす高温・多雨は、水稲稲作に適す気象環境だ。
次に灌漑だが、山と海の間を流れる河川のありようは、気候とはまた別の要素である。
食糧生産なる文化つまり農業による食糧生産は、人間労働なる新しいファクターとのカップリングが前提となる。
労働は、人類史的な新しい人的要素であって、気候や河川・降水や溜め池などの自然的要素とは異なる次元のものごとである。
明治以降は別にして、民俗的考察において、水稲耕作とほぼ無縁の土地がある。
北海道や北関東や南九州〜南西諸島などである。
前稿にも書いたが、これら土地の一部は、馬牧が盛んな土地と重なる。
現代北海道は、一大稲作中心に変った。これは品種改良や栽培技術の進化など人的要素によるアプローチが、地理地形的自然要件を凌駕して水稲耕作を可能にしたものと考えられる。
民俗時間では稲作に向かない地域に、稲作に従事しない縄文人が集住し続けた。
それは一面で、彼ら自身による合理的な生存選択であったようだ。
そしてまた、時代の変化に取残された者達が、水稲不適な土地に追いやられたという。別の側面もまた否定できない。
アイヌは、日本における先住民だが。明治イデオロギー色の強い旧土人法的差別は、21世紀の今日ようやく切変りつつある。
かつて存在した開拓記念館は、閉鎖され・模様替えにより・再オープンに向けて改装中だが。
”開拓”なるコトバがまずい、旧弊然な概念がまず一掃されるであろう。
古いパラダイム=これは教科書日本史にも見られる単線型発展史観に通ずる世界観だが、経済発展を至上と位置づける偏りから脱して。
価値観の並立・併存を許容する、より多様な複眼思考=市民主導の社会へ、それが21世紀的展望であろうと考える。
開拓使・開発庁が主導する計画経済=官僚考案のデスクプラン経済からいつ?離脱できるか?北のJRも正念場・土壇場だ。
やや脱線したが、本題に戻ろう
稲作文化の更なる多様化模索は、昨今の地球環境激変へ対処し・人類が生存を維持するため・真剣に考察したい。
民俗も歴史も過去に向かいながら,近未来へのベストチョイスを探る科学だが、科学の合理がもたらす成果は、現実の日常生活に反映されるべきである。
環境考古学の成果が,より広範に共有される情報環境が早く備わって欲しい。
それは、例えば、列島の過去のコメ作りだが。水稲一辺倒でなく・陸稲も存在したことを物語っている。
現在の粒食オンリーや単品種指向のブランド戦術などは、多様化に背を向けた絶滅危惧指向に近接する愚策と知るべきである。
粉食指向とは、コメを粉にしてパンのような食べ方を目ざすことであり。そうすれば、多種類のイネを混ぜて1つの田・畑に蒔くことになるから、異常気象に対する農業耐性もまた向上することになる。
縄文と弥生の話題を続けよう。
ともに、モンゴロイドだが、日本列島に到達した時代に6百年から1万年の格差がある。
一説に現生人類は、アフリカ南部に発した1つのルーツから発生したと言われる。
両者に差異があるとすれば、2〜3考えられる。
すでに種として消滅した人種との混血の可能性である。一方にあって・他方に無かった。
それから前稿で述べた、ユーラシア大陸で通過した経路と所要時間がもたらした差である。
一方は温暖な南を迂回して短期間でスルーし・他方は寒冷な北を選んでしまい冷涼気温への耐性を後天的遺伝形質として子孫に伝えた。
まだある。海への畏怖感の差である。
時期の差はあるが、どちらも大陸の西端=太平洋(日本海を含む観念だが)の東端に到達した。
その時、航海を厭わない縄文人は、躊躇うことなく海上に浮かんだ。
他方は韓半島の南の端で後世的な稲作=収量面で改良・進化した稲作農業に親しんだ。
彼ら弥生系人が海を渡ったのは、遊牧騎馬系の民族移動の波に押出されたからであった。
韓半島と云えども、後背大陸と地続きであり安住の地ではなかった。
対岸にあたる日本列島に已むなく進出したのであった。
この辺の事情は、ヴェネティアが、海中の孤島に移住・建国した事情とほぼ共通で、航海距離の差異しかない。
渡海の手段・道具を”舟”と言う。
縄文人の使った舟は、独木舟(まるきぶね)であった。
造船史では<筆者はもちろん素人だが>、単材刳船(たんざい・くりぶね)と言う。
単材がある以上、複在刳船もあるが。こっちの方は、弥生期以降の渡海船であって、金属生産が伴わない縄文人にはまず無関係。
独木舟と言うと、最も原始的な存在だが、その徹底したシンプルさが幸いしたのか? 列島では近年まで実用であった。と、船の科学館が1998年に刊行した「日本の船・和船編」に書いてある。
大きな樟や杉の木材を、火で焼き・石器で刳り抜いて、造形したものが出土している。
長さは6〜7m、幅が40〜70cm、深さが30cm前後しかないから。乗組み人員も積み荷の量もおおいに制限される。
神津島や姫島などでしか産出しない黒曜石、更に産出する条件が厳しい糸魚川地方の翡翠などを意想外の遠隔地に搬送している史実からして、
縄文人は好奇心・冒険心旺盛に海を渡ったのであった。
要するに搬送能力に課題あるも・座礁・沈没が全く無く・復元力・航走性は抜群に良かった。
そろそろ筆を置くが、まだ2つほど述べる
まずは、船は墓であること。
これは知る人ぞ知る・世界の常識である。
造船史なる学問は、想像を以て語ることをしない科学だ。
従って、陸上から発掘される墓の新たな発見が、造船史を劇的に一変することがある。因みに水文考古学はほぼ戦後に始まった新鋭の分野で、今後が期待される。
筆者が訪問したい船の博物館が2つある。
Viking博物館(ノルウエイ・オスロ)にあるヴァイキングの船=Gokstad農園から1879年発見されたもの。を見たい
もう1つは福建省博物館(中国・福州市)にある約3500年前に建造された独木舟=武夷山白岩崖洞墓にあった木棺を1978年に移設収蔵したもの。
後者の独木舟は、その地からまず台湾に向けて渡海した際に使ったものと同形であろう。
台湾から石垣〜沖縄〜奄美〜鹿児島〜列島本島へと、黒潮とともに北上した縄文人グループが居た。
台湾からフィリピン方面に南下して渡海したグループが、ハワイ島タヒチ島の現住民=ポリネシア人である。
オーストロネシア人種とも言う
もう1つのグループは、福州市辺りを始原として陸路づたいに南下し、インドシナ半島インドネシアの連鎖群島沿いに東進してオーストラリア〜ニュージーランドに達した。
後世、イギリス海軍から派遣されて太平洋中を彷徨った船団がある。
幻の新大陸があるはずとばかりに、生涯4度も長期の探検航海に出たキャプテン・クック(J・Cook 1728〜79)である。
彼は偉大な業績を残して科学者に列せられたが、台湾島からガラパゴス島の間に点在する『島が繋ぐ海の大陸』は、彼の眼には終身見えなかった。
その隠れた部分に光を当てたのは、クック没後約200年に当たる1975年から翌年までの半年間 沖縄で開催された国際海洋博であった。
今日はこれまでとします