おもう川の記 その3 荒川・概観

先月から書きはじめたシリーズだが、本来のテーマである最上川には、なかなか到達しない。
おそらく最上川そのものが、スネーク・リヴァーだからであろう。
現実の吾が取材の旅もそうであった。
意図せぬ蛇行を何度か繰返したが、未だ米澤の手前でウロウロしている。
この数年間 1年のうち幾度も、時に上流から・次は下流からと。最上の水面を眺望する旅を繰返しつつ、1つの目玉である米澤と最上川との結び付きについて,未だ確信が得られないでいる。
ただの観光旅行ならば,米澤はもう何度も訪れたのだが・・・・
さて、今日は思わぬ土地で、意図せず米澤に迫る事態となるまで彷徨った時空間について語ろう。
舟への関心は、いつの頃だろうか? 小学生か? もう少し古いかも?
舟  北前船を知ろうと思い立ったのは、この数年である。
北前船の向かった先は、北海道である。
北海道はもう20回近く、主に花を見に・そして山と湖の大きな景色を眺めに通っている。
北海道は手近なスイスと思うが、如何かな?
そして北前船と北海道の双方を一度に読める本を探していた。
そのとある本に、新潟県海老江<えびえ>なる・聞いたことのない地名が出てきた。
老人の読書は、量を稼がない。中味の詳細に徹底的に拘る。
時に、そこに往く。
それができる年齢・容易いとは思わないが何とか実現できる心境に、やっとなってきた。
残された時間は少ないが、専ら質を高める読書スタイルをやっと発明した感がある。
まず往ってみた。
まだ暑い夏の頃であった。
どこにでもある日本の風景であった。田んぼと小川と混在した住宅の連なり
家の前で、乗用車を洗っている土地の人に、突撃インタビュウをした。
質問する方に下地たる予備知識も何も、全く持ちあわせがない。
ところが、その人は「家の裏に何か記念碑のようなものが立っている」と言うではないか !!
彼の代に隣の集落から出て、そこに家を新築した。よって足元のことは何も知らないそうだ。
裏に回ってみた。
石柱が1つある。文字を読むと、ナンと米澤藩の米倉があったと書いてある。
意外であった。 読んだ本に書いてないぞ
海老江と米澤、互いは過い。 
何故なんだ? どうしてそこなんだ?
思いつきで家を出た旅は、いつも宿泊がネックである。夕刻とその時いた場所がクロスした空間に野営適地は少ないもの。
答えは見つからないまま、その日まずするべきは入浴、そこで関川村に向かって移動した。
結局この時の思いつき旅では、山形県には届かないまま帰宅した。
でも手がかりはあった。
あれから今日まで得た成果を、少し要約して書くことにしよう。
1、 海老江なる港、今はない。江戸時代にあったらしいことは、あの有銘石柱と偵察付近の地形から想定できた。
2、 川に面した港と想定。河口から数キロも遡らない下流・氾濫原と紛う・遠望が利く土地にある。
3、 北に村上市・南に新発田市があり、この2つの名ある拠点都市に挟まれた空間。
   そこを流れる胎内川・荒川の2河川のあり様を知るべし。
4、 文献史料によれば、江戸時代海老江港が面した川は、胎内川であった。
   胎内川は、1888年河川改修工事竣工を以て流路を切換えた。 河川延長32.7km
   工事前の旧流路=荒川と河口付近で合流<桃崎浜付近>した後、日本海に注いでいた。
  海の渚に形成された砂丘と並行して流れる<北東方向>下流部は、
  早い時期から洪水常襲地帯であった可能性がある。
   竣工後の流路 =人工放水路の河口である胎内市笹口浜付近で、日本海に注ぐ。
           現在の河川形態は、山間部から平野に出たときのヴェクトル延長方向を直線形で保っている。
           洪水問題はほぼ消えている
5、 荒川が海老江にあった米倉とその米倉を管轄する立場の米澤藩とを結ぶ川であった。
   新潟・山形の2県を跨ぎ、河口は村上市塩谷浜、源流は山形県小国町の朝日岳(1871m) 
   明治の胎内川改修完工後は単独で日本海に注ぐが。江戸時代は海を介すことなく海老江港に直行できた。
なお朝日岳は、磐梯朝日国立公園の一画を成す朝日連峰の主峰。  河川延長59km 
   その峰に立ち東北方向を眺めると直線約12kmの近さに,前稿で紹介した赤川の水源=以東岳1771mが見える。
6、 荒川の流れは、米澤の地とは地理的に無縁だ。 
   でも、川と並行する幹線道路はその昔「米澤街道」と呼ばれた。
   明治以降となれば、川が運ぶ物資は、鉄道輸送に切替り、やがて北前船も消えた。
   JR米坂線は荒川の美しい渓流を眺めつつ走る。
   名の由来は2つのターミナル米澤と坂町の頭1文字づつの抜き併せ。
7、 取材の日たまたま風呂に入り・野宿した温泉地=関川村は、荒川・米澤道路・鉄路米坂のいずれにも絡む街であった。
   翌朝街中を散歩した。なんとそこにある渡辺邸は、重文指定の豪邸・修復中であった。
   奇遇であった。あの米倉を具体的に管理する役目は、米澤藩御用米承り役の渡辺家が担っていた。
   そう書いてくると、この県境の村は江戸時代米澤藩領内であったかのように思いがちだが、、、、
   それはない。
   この地は、村上藩領と幕府領とを何度か?繰返した。会津・館林・白河の藩領など変転度々であったようだ。
   それもあってか。
   この地の豪農渡辺家は、物資流通の面で何かと力を頼ってくる領外藩主の上杉家と誼みを通じたようだ。
   渡辺なる名は、水運の世界では古い。遠く淀川河口辺が、列島発祥以来の”渡辺党”の本拠地になる。
   琵琶湖下流筋と瀬戸内海入口との双方に絡む淀川だが、日本海とを結ぶ2筋の流通経路の要に渡辺党がいた。 
今日はここまでとします 
 

アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地 (朝日選書)

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