か麗の島 No.4

前稿では、日本列島の基層となった文化の1つに北から伝わった要素があったはずであると論じた。
今回は、南と北の両要素を論じることにしよう。
今日の話題は、日本列島人のルーツである。
格別耳新しいことはないが、簡略化に留意して述べることにしたい。
民俗とは、現代の姿から古い時代の残照を導きだし、遂にはその成果をもって,現在から未来へと進む場合のベストチョイスを探る営為である。
現代日本人のマジョリティー層のルーツは、縄文系人と弥生系人の混血種であると考えられる。
現代から800年も遡れば、縄文系人と弥生系人の区別は容易であり・しかもその時代の社会対立の一場面であるから。それなりの意味はあったが、古い時代の二項的対立を詳述しても、現代では殆ど意味がない。
短期間の間に、狭い列島内での混血・同化が進んでしまったことを。驚くほどの意味があると考えたい。
軽く触れておくべきことは、もう1つある。
現代の基幹食糧であるコメのルーツについての考察である。
水稲農業は、モンスーン気候が特徴である列島には、うってつけの食糧生産方法である。
その構造的な環境条件は、将来とも不変であろうが。
稲作伝来以前の=例えば焼畑農耕などがそれだが=食糧生産を復活させ、食糧獲得の間口の複線化を図るなど。食糧の多様性は、将来の天候変化に備えたサバイバルへの配慮として必要である。
現在の1年生植物への過度な依存や単一生物種への過度な傾斜は、人類が絶滅危惧種へ限りなく接近することを意味する。
地球温暖化なるコトバは、ある意味錯誤による不完全な翻訳語であって。個別地域の寒・暖の差や乾燥と降水の地域格差は更に拡大する傾向へと進む危機的状況にも備えをしておくべきである。
縄文系人がまず最初に列島にもたらした稲とその後遅れて列島に渡来した弥生系人が伝来した稲とは、一応区別がありそうだが。現代からそれを考察することは不可能だろう?
その疑問が、環境考古学なる比較的に新しく・しかも著しい科学合理性を備えた学問をもって解明されたとしても。今日的意味はあまりないかもしれない。
考古学なるコトバが出たついでに、若干整理をしておこう。
その前に、前述した『縄文系人がまず最初に列島にもたらした稲』なる聞き馴れない件だが。
教科書常識型日本史と筆者が語る日本史との間には、少しばかり食い違う事を了知されたい。
それに多くの日本人が、疑うことなく保有する日本史とか世界史とかの知見だが。
『前者は後者の一部分を構成するに過ぎないとストレートに考える人』は果してどれくらい存在するだろうか?
所謂、現行日本史の歪みは、過度に文献に傾斜していることであり・更に文献批判が機能してないことである。
列島の文化基層は、無文字にある。
文字の導入は、せいぜい遡っても6世紀以後であろうか
それ以前は、全くもって考古学と人類学の領域である。つまり文献がカヴァーしてはならない年代であるのだ。
日本の考古学には、2003年の壁がある。この年に所謂旧石器遺稿のねつ造発掘が発覚した。
世界の考古学会に対して一気に面目を失ったばかりでなく・あらゆる科学水準について日本の力量が根底から疑われるキッカケになった。
ほぼ10年が経過したが、部外の立場にある筆者からみて、その後の対応もまた十分とは言いがたい。
最も危機的な事=この国のネック=は、不祥事に対して真摯に向き合い・きちんとした原因究明を行い・再発防止の措置を講じない悪癖である。
その当たり前が貫徹されないから、再び起る。何度も起る。懲りない輩ばかりである。
曖昧・模糊として放置し・時間が経過して・漠然となり・忘却される。それで真の科学者がまっとうに育つ日本に変ると考えているのだろうか?
さて次は残る人類学だが、これまた日本列島の特殊な気候風土に災いされ、多大な空白がある。
モンスーンの多雨な気候が、著しい酸性過多の土壌をもたらす。人骨や人間活動の痕跡が溶解・消滅してしまうのだ。
風土に根ざした生活様式を理解することが、文化研究だが。列島本土に限れば、その解析の手がかりたる生活痕跡や生活主体者の人骨が残されないという危機的状況にある。
ここで港川人と仮称・石垣人とのことについて、少し触れる。
港川人は、1968年沖縄本島具志頭地区から出土した人骨で、18千年前に暮らしていた集団を指す。
仮称・石垣人は、琉球新報2010.2.6日付社説によれば、八重山諸島石垣島の空港敷地内から発掘された人骨であるらしい。日本のメディアの関心は、先行する他の発掘例より古いかどうかの1点に集中するものらしく、およそ科学性に乏しく・旧来然の偏見から脱し得ていない。
筆者の記憶によれば、その後の発掘調査は現在進行形。しかも発見個体例500〜600体云々と、これまでの常識を遥かに超える規模であるとか?
そうなれば、正式の調査報告が出るまでに未だ相当の年数の経過が予想される。よって何らのコメントも全くありえない。
そこで、何故南西諸島から人骨が出るのか?それに触れてお茶を濁すとしたい。
それは暖流・黒潮の存在と関係がある。手短かに言えば、珊瑚礁が育つ暖かい海の中に形成される島は珊瑚を基礎土壌としているため(酸性過多と反する性質)、人骨などを保存しやすいらしい。
さて、そろそろ筆を置くべき頃合いだが、
筆者が「か麗の島」で感じた”やすらぎ”の1要素、吾がルーツに含まれる縄文の血と台湾の地に住む人達に流れる血との間にある親和性はどうだろうか?
現生人類を・その構成員たる現・日本人を・そしてまた現・台湾人を単一・純粋の種族と誤信してはならないがために、民俗の過去を解明し・展開する必要があると考えるが、、、、
台湾の場合は、明確な人種の多様・混在と進行中の混血とがある。モザイク状でありかつフュージョンの現在進行形である。バリハイ世界とも呼ぶべき理想環境の移行地帯でもある。
具体的に言えば、外省人本省人なる言葉があり(本来”省”なる文字も使いたくない立場だが、より適当な字が見つからないので、旧態既存語をストレートに借用する)。
それに対応した無交渉状態も存在する一方で、差別なく交際して婚姻を成すに至る現実もまたある。
外省人は、第2次大戦後に日本が立退いたアト、大挙して大陸から高飛車な制度と差別意識を隠すことなく携え。支配層として居座り・旧態然の人権軽視の思潮を持った1グループにして、一挙に人口密度を悪化させたイソウロウ組だ。
要するに中華民国を標榜する漢民族だが、漢民族自体の人類学的位置づけは、世界最大の人口を抱えながらも・超然たる政治性を長期にわたって維持する特殊性から、比較を通じて行う科学検証に馴染まず、未だに判然としない民族集団だ。
本省人(上述の外省人以外を指す文字)は、大きく3つの属性から成る。
まず明から清の時代に福建・広東の両省から移住した者の子孫たち。漢民族と言えないこともないが、台湾来島の時点ですでに更なる南方に住んでいたインドシナ半島人との混血があったはずであり・来島直後から台湾先住民との混血が進行しているグループである。
次は、先住民。
最も古い生活スタイルを保存しつつ太平洋に面した山岳地帯(台湾東部)に暮らし続けるグループである。日本統治(1895〜1945)の期間を通じて、日本語による近代化が図られ。固有の生活文化が解体された少数民である。
近・現代化の中で、域外民との交渉により更に古俗の解明が困難化しているが、縄文の”血”に最も近い存在である。時に高砂族・高山人と呼ばれたこともあった。
最後の第3グループは、所謂誤差の範囲でしかないが、統治時代の日本人との混血などが想定される。
さて、問題の台湾先住民は、何処から来たか?
結論を急げば、縄文系人も弥生系人も台湾先住民も同類のモンゴロイドだ。
弥生系人の先祖だけが、ユーラシア大陸を西から東に移動する過程で、ヒマラヤ山系とその北に形成された大砂漠群と出逢った際に、迂回路として北の経路を採用した。
そこで縄文系人と別れたことが、人類的形質が後天的に変化し・子孫に遺伝的形質が伝わった。
よって3つ並べた中で、弥生系人だけが最も類縁関係が遠い。
そうなれば、残る2つ=縄文系人と台湾先住民だが=の先祖は、上述の自然障壁(ヒマラヤ山系と北の大砂漠群)を南に迂回して、短い期間でユーラシア大陸の東端に達した。
そこでも彼らは本領を発揮した。海を渡ろうと考えるような冒険心と活発な好奇心とを備えていた。また土器の生産など、新発想に果敢にトライする開発精神の豊富な人種でもあった。
彼らの先祖が、大陸の先の大海に出逢う時までの間に。ごく初期の稲作農法に接した可能性があるが、水田稲作は灌漑農地即ち定住を必須とさせる生活拘束性を持つ。馴染まなかったのであろう。
太平洋の西端に立ち、海に乗り出した地。それは福建・広東の両省であったに違いない。
むしろ、そこ以外の地から海に出た者は、生きて再び戻れなかったと言うべきかもしれない。
一部は大陸に残り・一部が台湾に移り住んだ。
そこからまた一部が黒潮に乗って南西諸島に移り住んだ。
仮称・石垣人の先祖であり・その一部の更なる子孫が移住した先が港川人の住む土地であったろう。
本稿の中心対象地たる日本列島の中で、最後まで水稲栽培に不向きな土地を3つ掲げる。
南九州〜南西諸島・北関東・寒冷気候下の北海道である。
ついでながら名馬を育てる牧場立地は、また水田と並び立たない。
そこに住み続けた人達は、最も古い生活様式を有していたが。現代の差別に当たる用語を以て、古い時代の文献記録に名を残した。筆者は差別を排除する立場だが、必要から引用する。
蝦夷・隼人・国栖・土蜘蛛などがそれである。
アイヌスピリットやハヤトスピリットは、意気に感ずると一命を軽く投捨てる”きらい”があるそうだ。
それは、”黒潮の魂”とも言えるが、土佐っぽスピリットやたかさごスピリットや高山人スピリットにも共通する心意気であるらしい。
今日はこれまでとします、明日の第5章は同じテーマの後半を扱います。