おもう川の記 その2 赤川・概観

第1章 赤川
体験に基づく川の記録を,山形県を流れる赤川=あかがわ。から始める。
赤川の河口は、日本海に注いでいる。
庄内空港酒田市街との間にある砂丘地帯は、クロマツが密生している。
クロマツ密生の林沿いに走る国道は、内陸・庄内平野の中を走る国道とは,おおいに趣きが異なる。
ほとんど眺望が効かないのである。
これは推定だが、このクロマツ密生林はおそらく人工植生であろう。
この密生した針葉樹の塊は、海の渚と後背地の水田平野の間に、厳然と存在し続けることで、強い風や飛び砂による被害から田畑を護っている。
所謂、防風・防砂林である。時に、地震津波による海水の侵襲から護ることも予想される。防潮林だ。
ただ日本海において想定される津波の規模は、太平洋岸のようなスケールになることはまずないであろう。
俗に言うリアス式のような複雑に入組んだ海岸線は、少ないからだ。
さて、赤川の話をしないで、砂丘地のことに触れた理由だが、それはそのような風景の中を切拓いて、赤川新川が造られたからである。
赤川新川は、1927年に完成した人工放水路である。
それ以前は、酒田市内の飯盛山付近で、最上川に合流していた。よって、合流時代の河口は、酒田であった。
大河を引受ける河口の街は、酒田市である。
物資や人の往来をも引受ける河口の街は、所謂交通の要衝である。
酒田に海港がある。
酒田が日本海有数の大都市であり、山形県の中核都市であること、港湾の繁栄と表裏一多であることは今更の言ではない。
だがしかし、世のありようは良いこと尽くめではない。洪水が河口に時々押掛けてきて、人命やら家産を押流してしまう。
酒田の場合は、大正年間に洪水の害を訴える声が高まったらしい。
その後、間もなく河川改修と河口付替えの大工事が始まり、上述したとおり昭和2年の夏頃に最上川との切離しが成った。
いささか余談だが、洪水の主たる原因は、降雨量の増大にある。
経験的に70〜80年のサイクルをもって、降雨量の増大ピークがやってくる。
因みに、赤川の流域面積は、857平方km。河川延長が、70kmである。
最上川と土木工学的に分離させられたことで、庄内ゾーンのみに属する純粋の川となった。
以上をもって、ほぼ今日の本稿は終るのだが、紙数になお若干の余裕があるので2・3の余談をしたい。
赤川の名は、大鳥川と梵字川との合流点から下側の流れに当たる。
大鳥川の上流に水源がある、朝日連峰以東岳鶴岡市 1771m)がそれである。
もう一方の梵字川<ぼんじ川>の水源は、月山である。鶴岡市など・標高1984m
月山は、出羽三山の一であり、修験道で知られた聖なる山である。
ところで大鳥川の方には、タキタロウなる巨大怪魚の伝説がある。
身の丈5尺と言われ、ひと頃地元テレビ局やNHK特集などでも放映されるほど話題を呼んだ。
アカガワ版ネッシーと言うと、一部の方からはお叱りを頂戴するかもしれないが。この30年くらいは、なりを潜めた感がある。
東北で”ギョッ”と言えば、この人である。
釣りキチ三平」の矢口高雄だが、当然に彼の漫画にも登場した。なお関心のある方は、そちらを求めてもらいたいもの。
赤川の上流は、列島であればどこにでもあるような深い渓谷があり、思わぬ奥地に人の住家がある。
六十里越街道の途中にある田麦俣(合併により現在は鶴岡市のうち)には、多層構造の民家群がある。
要するに豪雪地特有の住居と家内工業における生産の場が一体となった大型家屋である。
民家を描いた洋画家と言えば、向井潤吉<1901〜1955>である。
彼の住まいの一画が、区画されてアトリエ館となっていて、散歩圏内であったから幾度か訪ねたことがあった。
彼は、古い民家を探し求めて列島各地を歩いたと聞く。
想像するに充実した生涯であったことだろう。
最後にもう1つ、なぜ第1章が赤川なのかということと関係するが、、、、
赤川の上流は、磐梯朝日国立公園の一画である。
この深山幽谷の本格的山岳域に関連ある川を連ねると、阿賀野川最上川の都合3河川である。
この3川に挟まれた深山地域に会津ゾーンを含めた会津・朝日の地域が、自然破壊と伝統的社会の解体が著しい速度で進行する日本列島の中で、最後まで残される宝物庫のような存在になっている。と言えよう。
仮に民俗のアルカイダ・ゾーンとでも呼んでおくことにしようか?
今日はここまでとします