か麗の島 No.3

今月から始めた新シリーズだが、この稿を急いで言えば、安らぎを覚えた島への親愛告白状みたいなものである。
まず前稿で書き,予告した事をなぞるが、、、、
初めての訪問にして、外国に居る気がしなかった。
そうざらにある情感ではない。
それは何故か?ずうっと答を探している。
だが書きはじめたら漠然としていたものが、少しづつカタチになってゆくようである。
ここで少し説明にならない拘りを述べておきたい=筆者の旅行は昔から変わらないのだが。
一番力点を置いているのは、景観を漠然と眺めることである。
できれば、日本列島にあまり無い光景を眺望するのがよい。
眺望とは、かなり広い範囲を遠くまで見渡すことである。
漠然と眺めるとは、カメラで撮る・動画を廻すなどをあえてしない。
とまあそんなご託を並べると、さも信念がありそうに聞こえる。
豈図らんや、詰まるところ資本力の不足が招いた結果だ。
生まれつき遠視の傾向あって、遠大なスケールに好適だ。
されば、具体的な対象は、氷河とか火山=アイスランドはどっちもあった。
断っておきたいことはまだある。
食べることや物を買うこともまた無い。よって、受ける話題に乏しく残念・そして申し訳ない気がする。
もっと懐ろ暖かく旅に出たいが、人には身に備わる天性のものがある以上已むなし、、、、
さて、本筋に戻ろう。
台湾の景色は、日本と合い通うものがある。
専門的な知識は無いので印象だが。西日本の照葉樹林に近いようだ。
台湾の地形の北半分は、間違いなく植生・林層が似る。列島のような植林の文化・しきたりがあるかどうかはまだ知らないが、、、
次は南半分だが、中央付近を区切る北回帰線の南は、熱帯ゾーン。
熱帯植生であると早計に決めつけてしまえば、常緑広葉樹林帯に属するという。
これも照葉樹林帯と見た目で区別しにくく、互いが境目なく繋がりあう林相のようだ。
照葉樹林帯の景観は、かつて紀伊半島で見たことがある。
溢れる陽光を受けて葉っぱが反射光を跳ね返し、山並は明るい。沖を走る黒潮を思い出させるものがあった。
照葉樹と黒潮が出ると、追って、稲作とかイモ祭りとかが、ゾロゾロ出てくるわけでもない。
さりながら、先達の発見なり・フイールドワークによる検証作業に対して異論があるわけではない。
でも少しだけ疑問を呈する必要はあると考えている。
文化は南からの傾斜が強過ぎて、その逆方向への配慮が手薄になり過ぎていないだろうか?
科学である以上、筆者のように寒いのは弱いし・嫌いだといって、「北方」を等閑視するわけにはゆかないはずである。
例えばだが、焼畑農耕には、南方要素と北方要素とその混合とがあるらしい。
南方要素の方は、バリ島からインドシナ半島まであるらしい。
中国の南部にある焼畑農耕は、かの司馬遼太郎氏が街道をゆくシリーズNo.25びんのみち<びん=は漢字を充てる。”門”構えに”虫”の字>をもってレポートしている。これは明らかに南方要素の焼畑農耕に当たる。
ほぼ無名に近い北方要素の焼畑農耕について、筆者は語る立場にない。
何故なら古い時代を究めることの限界を知るからだ。
見たことのない発掘物に出逢って、全体像を正確に見透せる自信が全くない。それは現代の知見をベースにした知識しかないからだ。
しかし、広く眼を転じれば、展望はある。
「れきはく」と「ちきゅうけん」が、近い将来。北方要素の焼畑農耕について纏まった報告をしてくれそうである。
こと歴史分野、中でも文献・訓詁史学において目新しい展望はなさそうだが、周辺科学たる考古学の領域は21世紀に入ってから、いろいろゴタツいたこともあってか?根底からひっくり返ってしまっている。
それもあって若い頃の知識が全く役に立たない。努めて年に数回。千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に足を運んで、展示から学ぶようにしている。
最近眼についたのは、縄文・弥生の年代表記を炭素14年代測定法での展示に切換えたこと&白山麓焼畑農業を展示したことである。
西暦基準による絶対年代表示は、共通の基盤に立って議論をする科学では当たり前のことだが。この国ではその当たり前がなかなか通用しない。れきはくの新年代表記でも文化区分に従えば、九州北部の弥生・早期=関東南部の縄文・晩期が同時期である。
それは、客観的事象をある程度踏まえているのであろうが、少しおかしい気がする。
稲作文化が、西日本のある1地点に上陸し・陸地の上のみをあたかも時系列的に階段状に北上したように思わせたいのであろうか?
食糧生産が、自然発生的であり・面的な広がりを持った農業技術であったことに立てば、おのずから無理がある。
海流のあるところ、沿海・河川の上・中・下流・内陸を問わず。日本海側・太平洋側に拘ることなく。栽培好適地にして・先住居留者との権利調整が図れる場面であれば、人口膨張のイールドと栽培における気象的制約のクリアーに応じて。稲作農業は、ランダムに立地・展開した。と筆者は考える。
要するに、桜前線のようなイメージ=段階的・時系列的に整然と北に伝わったようなイメージを持たせるべきでないのだ。
つい脱線が長引いたが、本題の方は、焼畑である。
筆者と焼畑の出逢いは、数年前からである。白山麓の白峰<しらみねと詠む>で、地球研の職員と偶然遭遇したことに始まる。
ところで、地球研とは俗称だ。大学共同研究機構・総合地球環境学研究所といい、京都の上加茂に本部施設がある。
さて白山である。
主峰が石川・福井・岐阜におよび。加えて山系としては滋賀、更に水系で富山・愛知・三重にまたがる。
呼び方は、はくさん・びゃくさん・しらやまさん等々だが、音においてシラ=新羅に通ずる。
新羅・統一新羅があった韓半島は、日本海(=アジア地中海ともいう)を挟んで、関連県域=富山・石川・福井3県の対岸に当たる。
では、白山麓焼畑は。どこから伝わったか?
未だ明確な答えはない。がしかし、一説に北方要素と南方要素との混合焼畑であったとする見解がある。
ここで少し話題を食べ物=「赤カブ」に広げる。因みに、蕪は寒冷系野菜である。
ほとんどの人は食べたことがないであろうし、聞いたこともないであろう。
産地として比較的高名なのは、山形県鶴岡市温海温泉&岐阜県高山市である。
温海温泉<あつみと詠む>は、海人族の安曇氏に因んだ地名と言われる。
飛騨の高山は、白山麓の一画にあるが。その昔TVドラマの「赤カブ検事〇〇」シリーズで、今は亡きフランキー堺が好演していたことを思い出す。
また一説では、白山麓は北方焼畑の南限地区であるともいわれる。
そろそろ今日の稿を終えたい
問題は、北とか南とかが具体的に何処?を指すかである。
列島共通の方位問題を勝手に捌くことは、到底できないことだ。
前述の司馬サンが指摘する中国南部とは、福建・広東の両省であるから。そこの焼畑が、対岸の台湾に伝わり。更にその北にある南西諸島から列島本土へと、”花綵”を伝って。南から北上した所謂南方要素の焼畑農耕となる。
対する北方要素の焼畑農業は、ではどこから?  当面答えはない。
手がかりではないものの日本海を経由して伝われば、北であるとする見解がある。
日本海を”北ツ海”と呼ぶ例がある。
ところで”しらやまさん”は、主として信仰上の呼び方であるが、各地にある白鬚神社・新羅神社などと一部の”音”が重なる。
白山神社の神体である菊理媛=くくりひめ=は、衣類の染色に因む動詞に由来する。
糸から織物にする道具は、”機=はた”である。
かの聖徳太子と親交があった秦=はた氏は、古代新羅の領土内に本貫の地があり、古代の列島に織物技術を伝えた一族であるという。
以上は、”ことば”と”音”との重なりを単に羅列しただけだが、筆者は極めて密接に関連があると考えたい。
現代列島人は、南に著しく関心を持ち・重きを置く。反対方向の北は、その逆で限りなく寒いままである。
黒潮がある以上、その逆の流れである寒流=親潮もある。
親潮に乗って列島に伝わった文化もまたあったと言うべきである。
歴史・民俗の研究もバランスを欠いてはならない。
もっと北に眼を向けるべきである。
かつて、高田屋嘉兵衛がそうであったように・・・・彼は江戸時代の航海者だが
更にその昔=旧石器時代に海の潮流に乗って、列島のみならず。ハワイ〜オーストラリア・南北両アメリカ大陸にまで到達した民族がいた。
その話は明日のテーマである

照葉樹林文化とは何か―東アジアの森が生み出した文明 (中公新書)

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