にっかん考現学No.78 信使よも11

朝鮮通信使の成立由来を探る信使よもやま話第11節のテーマは、「歳遣船」と「文引制」である。
本日はその第3回目=続々稿である。
嘉吉条約は嘉吉3(1443)年に、李氏朝鮮対馬島宗貞盛との間で締結された。
この条約を李氏朝鮮サイドは、年号にもとづいて癸亥約条と呼ぶが。特筆すべきは、李朝第4代国王・世宗大王の掲げた「平和通交の交隣策」である。
列島国内の政情不安による社会混乱の実情を踏まえつつ・西海道の海岸民族の腹の裡まで深く読み取って。倭冦に転落することの無いようにと、自らの願いを噛んで含めるように伝えていたようだ。
それはあくまでも筆者の想定解釈でしかないが、半島サイドの究極の願いはかなえられた。
「倭冦は、朝鮮半島に向かわなかった」・・・成果あってそれでよしだ。
朝鮮通信使が来日する交流事業は、李朝とその後の列島に成立した徳川幕府が存続する期間を通じ、将軍交代など慶事の折に(所謂・継続的に)実施された。
隣り合った国・地域が互いに善い通交を維持することで、相方に平和をもたらされた。
善い通交とは、無原則の自由貿易を意味しない。これは通史的な真実であると筆者は思う。
明君の世宗は、対馬島主に歳賜米(さいしまい)を与えた。
基本食糧であるコメと豆を併せて200石、これを毎年支給することで、対馬の社会的安定は保たれた。
なお、韓半島側史料によれば、この給米措置は世宗10(1428)年からはじまっているらしいから、明君の懐ろの深さか?外交手腕か?いずれでも我らが想像を遥かに超える。ただなんとなく、現代の”思い遣り予算”に通ずるものがありそうだ。
更に李朝対馬に対して年間50船の派遣受入を許した。
これを「歳遣船」と言う。李朝は、列島からやって来る船の数をとにかく絞りたかった。
交易船の一方的受入側となる李朝は、列島からやってくる船の裁きを。効率的に処理する方法を考えた。
帆船渡海の時代だから、列島源初の倭船は、必ず中継寄港地に当たる対馬に立ち寄る。
 1、韓半島へ入国したいと思う船は、必ず対馬島主から推薦を取付けるように定めた。
 2、韓半島側の受入港を3つに絞り込んだ。
 3、対馬島主が発給する推薦状には、李朝政府から交付された指定の印綬を押捺することとした。
上記3点を満たさないケースは、アウトロウとして撃退される旨を。中継港の対馬で島主宗家から必ず聞かされた。
以上が、「歳遣船」と「文引制」の要約である。
対馬島主宗家は、列島内では僻地大名であり、幕府内序列も低くおそらく末席に近かったであろう。
しかも遠隔の孤島で食糧面の自立ができない決定的弱者でしかなく、崖っぷちにへばりつく危うい存在と見られていたようだ。
だが、平和の時代が到来して・対半島渡航の関門番役を請負う立場に立っていた。
対馬口の武将として影響力ある家門に転じていた。
しかも、宗の家は懸案である食糧懸念からも、解放されていたのである。
ありていに言えば、宗の家は、李氏朝鮮から官職を受けた「受職人」の顔と足利将軍家所属諸侯の顔とを持つに至った。
一時期の琉球王のような両属の立場である。
おそらくボーダー・フィールド=国境世界のサバイバルとはそんなものなのであろう。
筆を措くにあたり、渡海通交を行なうニーズは何か?を考えてみた。
交易船を派遣したのは、何を求めて?どんな立場の人だったか?
史料によれば、日本から貿易のために15世紀半ば頃韓土に渡った船=通交数は、約30年間で180件だ。
派遣した者は、足利将軍・有力大名層・各地中小豪族層・対馬&壱岐の島民など各層に及んでいる。
次に何を求めたかだが、ありとあらゆる物である=では答だが、応えていないことになろう。
派遣者各層毎に、ニーズはそれぞれである。従って求める物も、またそうなる道理だ、、、、
ひとつだけ、はっきりしているものを示すことで、答えたことにしてもらいたい。
それは、綿である。
その当時 綿は、列島では入手できず・韓半島慶尚道全羅道忠清道などに産した。
綿の用途については衣類に尽きるが、国産品でない当時だから、一般大衆には全く無縁=絹と同じ高嶺の華であった。
綿を輸入できれば綿だけに、 ”ボロ儲け” だったかどうか?それはよく判らない。
特筆すべきは、航海用素材つまり船の帆である。
歴史的に帆の素材は、ワラ・イグサ・竹などを編んでムシロ状にしたものから始まる。時代が下るとともに、麻製のムシロへ
そして最後に”木綿帆布”となって、帆船時代は終焉となった。
操作性とくに海況の急変に遭遇した際、速やかに帆を取込んで風から逃れることができる木綿の柔軟さは抜群であった。
もちろん柔軟である前に当然のことながら、風を孕んでも破れない強さが求められる。
室町時代の日本列島において、棉の生産が全く無かったことを疎明することは難しいが。流通ベースに載ってないことは、ほぼ確定的である<柳田邦男=木綿以前の事から。ただし筆者の理解>。
すでに述べたことだが。倭冦の親玉に倭人がなれなかった背景のひとつに、造船・航海の技術的側面の未熟さがある。
実は基礎的重要素材である”木綿帆布”が、国産できないこともまた致命的要素であったかもしれない。
ここまで書いて来て、今年も押詰まり最後の余談記事になるなあと思いつつ。念のため”木綿以前の事”を読み直し、裏を取ろうとしたのだが・・・・3日もかかるとは!!
民俗学は、年代・時期を絞り込めないから。時代の特定を求めて嵌り込むと、史料探索の長い旅へとのめり込んでしまう。
綿の種子を持った崑崙人が、三河国に漂着したのは。延暦18(799 平安初期・桓武天皇の頃)年であると判明した。
この記事を書くため、「日本後紀」に当たったら。つい横道にそれてしまっていた。
同じ年の4月に渤海使が帰国。渤海国王への贈り物リストの中に「綿300屯」とあるのだ。
”列島では、入手できない”と、上で述べている。少しぐらっとした。
国産できない・貴重な実用物資を、朝貢を求めて来る相手に惜しげもなく下賜するであろうか?
でも、すぐに気を取り直した。綿の原種は未だ列島内から発見されてない。よって当分の間、綿の国産は江戸時代以降のことにしておこう。
以上をもって、信使よもやま話をいったん閉じます。
余談の項で出てきた渤海国は、韓半島北部から沿海州にかけて、698〜926の229年間存続した。この間に延べ34回も朝貢来日している。
何時の日か・彼の地に訪問が叶えば、にっかん考現学の延長圏域として、探求してみたいものだ。
仮にそうなれば、東アジアから東北ないし北アジアにまで広がることになろう。
なお、通信使研究は、ゆかりの地訪問実査の旅を来春頃に再開し、逐次染筆することに致したい。
<注> 本文中に出てくる史料とは、海東諸国紀を言う。撰者の申叔舟<シンスクチュ 1417〜1475 李朝官人>は、通信使に同行して2回来日し、当時の列島の地図・風俗・地名・田積や日朝通交規範の集成など貴重な情報を残した

海東諸国紀―朝鮮人の見た中世の日本と琉球 (岩波文庫)

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