にっかん考現学No.77 信使よも10

朝鮮通信使が派遣されることになる由来を探る信使よもやま話第10節のテーマは、「歳遣船と文引制」である。
本日の稿は、このテーマの続々編である。
しかもテーマ「歳遣船と文引制」は、9月に第1回を始めた際に設定した5つのキィーワードの最後の項目である。
以下はこれまで述べてきたことのいわばおさらい
東アジア圏域外交つまり明&李氏朝鮮との間の対岸交易は、室町幕府第3代将軍・足利義満が始めた。
だが、いささか時期過早の開国事業は、彼の死後間もなく放擲された。彼の実子にして・次の第4代を継いだ将軍・義持によって継承されなかったのである。
ここでいくぶん釈迦に説法をあえて行う。その時代の国際情勢を現代の常識によって解釈したり・憶測することは、いろいろの面でリスキィーであると伝えておきたい。
国をめぐる概念や国際政治に対する考えは、西欧文明の思潮を含んでしまった現代社会とそれが無い当時とではおおいに異なる。
社会観が根本前提から食い違っており、単純に時代遡及させるような解釈では、誤解となってしまう。
理解のため1つだけ例を設けたい
国のカタチ。統治者である君主は実在した。現代認識の領土に当たる税収領域もあった。
ただ国民認識が、統治者当人にも・当該統治圏域居住民=担税者にも、全く共有されていなかった。
当時の東アジアにおける政治・経済・社会の通念は、現代とあまりに懸け離れ。その税概念に国民国家的ギブ&テイク=社会契約観念的な認識はなかった。
とまあ、”国の政治”・”国際外交”など現代の知識から、過去の歴史事象を類推解釈することの危うさをご理解されたことでしょう。
おさらいも、いよいよ核心に近づく
1419年 李氏朝鮮は、外交破綻のアト遂に対馬を襲った。「韓寇である」=ここでの呼び名。
2国間事象にはそれぞれ呼び名がある=列島で「応永の外寇」・半島で「乙亥東征」。
対馬の侵略軍との上陸戦=10日を経て、敵は突然消えた。来襲の意図も・戦果の帰趨も不明だが、侵攻軍はとにかく撤退した。
眼前にあるもの、それは対馬のもとの自然の景観のみだった。武闘は不意に始まり・そして終った。
不思議な出来事だった。謎の塊が残った。
報告を受けた京都の町は、130年も前の元寇を想起した。
文永・弘安と2度も、招かざる敵はやってきた。遠い鎮西の地にである。
その時も不思議なことに、ほとんど何もしないうちに忽然と事態は消え失せた。3度目は来なかった。
今度も2度めまで=また襲ってくるかも・・・出方が読めない疑心暗鬼・漠然とした不安に都は包まれた。
シマグニの中心は、有史以来一度も外国語集団に侵されていない。
京の都はそんな所だ。
将軍義持は、李朝に対して使節を送った。再び来る気配の有無をホンネで探りたかった。だが、外交嫌いの不本意行動だったかも?
表向きタテマエは。最も近い先進国に仏教典を求め、使節員に仏僧を指命した。
1420年 使節は使命である経典類を持ち帰った。だが、回礼使が付いてきた。返礼のための外交官来日である。
回礼使の名は、宋希景<ソンヒギヨン1376〜1446 ”景”は仮の字で本来は旁の部分・偏に”王”を加える>
彼のことは、本稿のNo.60後半番台で採上げた=朝鮮通信使が寄港した現場実査レポート=蒲刈三之瀬の節を参照されたい。
彼が残した紀行録=老松堂日本行録は、中世の列島事情を知る風俗研究史料として貴重である。
ここまでは、前稿の余録談話を含めての”おさらい”である。
ソンヒギヨンの肩書は回礼使=返礼のために来日した外交官だが、それもまた表向きの理屈でしかなく。
李朝第4代国王世宗大王のホンネは、あくまでも日本との外交を復活させ・維持したい=倭冦の憂いを取り除きたかった。
しかし、この時外交関係は樹立に達しなかった。義持の存命中は、なんの進展も無かった。
だが、「韓寇」は、再び来襲しなかったし、倭冦もまた鳴りを潜めていた。そして半島の大王は、明君にして長命であった。
両国間の国交樹立は、嘉吉3(1443)年まで待たされる。
その時来日した、最初の朝鮮通信使が、李芸<イイエ 1373〜1445>である。
彼のことは、よもやま話の第1稿で既に採上げた。No.68=9月29日の稿を参照されたい。
そして、彼の生涯を描いた日韓共同制作の映画は、この6月列島各地で公開された。
彼のことは、公式ホームページからの引用に留める。映画はみるものだ・語るべからずである。
ソンヒギヨン回礼から、ざっと四半世紀も経た後の国交再開である。
この間に,列島側は更に傷んでいる。
1423年 将軍・義持はその職を退いた。
1428年 43歳で物故した。
統治権力層としての室町・足利体制は、更に弱体に陥り、京の都がそのまま戦場と化す=応仁の乱(1467〜77)へと転落する過程をたどった。
この四半世紀に僅か2年程満たない期間<=ソンヒギヨン来日〜イイエ訪日まで>を通じて、韓半島の統治者は、一貫して世宗大王であった。
彼は倭冦の発源地である列島を、油断せず見張り続けていた。
国境を厳しく閉じ・海禁を厳格に実施すると。対馬など海人族の生存が窮迫する事態となる事を知っていたようである。
まさに”窮鼠猫を噛む”事態に追い込む原因は、国策にこそある。そんな国策は海から遠い陸の官僚が無知を押し通す愚策である。
民衆の生活=経済活動を無視した国策の設定は、運送・物資流通に従事する者をアウトロウ密輸業者に追い立てる。
堂々と港に入れず不本意ながら不法行為たる密輸犯罪者にされる海人族は、たちまち海賊に変身してしまう。
対馬を含む西海道は、穀物食糧の生産にゆとりが乏しい地域である。それは通史的事実でもある。
耕地と灌漑水に恵まれない島嶼部は、なおさら食糧自立が難しい。
そこのところを,遠い陸地の都にいてよく知っていた国王だから、明君と呼ぶに相応しい。世宗は大王と呼ばれる所以だ。
1443年 嘉吉条約(かきつ・年号)=半島呼称の癸亥約条は、李氏朝鮮国と対馬島宗貞盛との間で締結された。
明君は現実を弁え、柔軟な発想に立ち、具体的に役立つ措置を手当てした。
対馬に継続的にコメを給与することを約束した。
対馬の役人が、半島内に居住することを認めた。
列島各地から、船に乗って韓半島に来ることを認めた。
いずれも制限的に許したことだが、開明性において優れた・反儒教的な快挙と言えよう。
「出島』の発明もまた評価に値する。現代では”コロンブスの卵”でしかないが、最初の発案なり・創造的な実現は、まさしくブレークスルーそのものだ。
それに列島の地方統治者つまり地域権力と条約を結び、その約束を護り続けた。そのことは一見平凡ではあるが、評価されてよい。現代常識に立てば、”一地方”と”国”・つまり異なるレベルの間の協定になる。
明日は、この朝鮮通信使を創設した日・韓間平和協定の中心措置とも呼ぶべき『歳遣船と文引制』について論じます