にっかん考現学No.76 信使よも9

朝鮮通信使が始まった由来を探る通信使よもやま話第3節のテーマ=「歳遣船と文引制」の続編である。
今日は第9話だ。9月に始めた第1話で5つのキィーワードを掲げたが、実は第3節が最後のキィーワードに当たる。
前稿は、室町幕府第3代征夷大将軍足利義満が対明・対李朝貿易開始に乗り出し、勘合船が発遣されたところで終ったので、今日はその続きである。
1404年 ついに義満の念願であった勘合貿易が始まった。
1408年 勘合貿易開始間もないこの年に義満は病没した。
     後継将軍=足利義持は型どおり、父の死を外交ルートに載せて通報した。
君主専政の政治体制の下で権力は世襲だ。対外交渉も前例として受継がれる。
だが、義満・義持父子の仲は良くなかったらしい。貿易のメリットを息子にうまく伝えなかったか?
それとも他に何があったか?  600年もの昔となると真相がよく判らない。
その直後に起った応仁の乱は、国内争乱でも世界大戦なみの破壊力。史料は殆ど残っていない。
当時貿易と外交は同事だが、義持の外交使節に対するあしらいはかなりルール違反であった。
でも相手方の明国は明らかに・そしておそらく李朝も、日本に向けて外交使節を送り続けた。
彼我の文化水準較差を考えれば、貿易のニーズは当方に強くあって・先方には殆ど乏しかった。
にもかかわらず、対岸サイドの方が、旧来どおりの外交修復を図ろうと努力した経緯が伺える。
明国・李朝のニーズは、倭冦を抑え来襲を減らす=まさにその事にあった。
もちろん後継将軍・義持も、その辺の事情は判っていた事であろう。だが、遠く西海の果てにまで幕府の武威を轟かすだけの影響力を既に失っていたようだ。
1411年 明国・李朝との外交は、中断に至った。
そして、1419年 対馬を「韓寇」が襲った。
外敵急襲を、対馬の島主である宗家は、九州太宰府と京の室町に対して急報した。
戦況の推移を報ずる知らせは、都の将軍に何度も届いた。その内容たるや、まるで”塔の上から目薬”
ようとして判らない。
対馬と京との間は遠い。
僻遠の地に、外敵が突如上陸して来て、戦闘が始まった。唐突な出来事であった。
陸戦が10日を経た頃、敵は何故か消えた。さっと来て、忽然と消えた。
来襲の意図も撤収の狙いも判らないまま、敵を撃退したと手柄だけを吹聴する通報であった。
いかにも対馬島主宗家=武士らしい伝達だが、肝心の外敵が”なに”を訴えて襲ったのか?
”何故”急に撤収したか?など。  相手に関する情報が全く乏しい。
電報もインタネットも無い時代の遠隔通報だから、不得要領極まりない怪文書まがいの軍事通報であったようだ。
敵の意図を掴めない=肝心の核心がぼやけた役立たずの情報でしかなかった。
遠い都には当時の記録が僅かながら残っている。
僧・満済の記録(醍醐寺文書)や看聞日記<貞成親王>がそれだ。
醍醐寺座主・満済は、幕府の中枢にあって、秘書官長=黒衣の宰相=官房長官なのだが。情報源が核心を外した軍事通報だから、今後の出方について全く掴みようがなかった。
そのような時、都のような人士がゴマンと溢れ、しかも身近くに外征軍が立ち現れる気配ないとみるや。前稿に書いたように、蒙古の奴らは2度来るとか、、、2石にして捨てるが囲碁の定法とばかり、、、、先行きの不安=外征軍の再襲来を煽るような、出鱈目・荒唐無稽の噂が囁かれたようだ。
蚊帳の外に居る皇室・公卿のまた聞き日記などに至っては、ピント外れのデマゴーグ
まして、この2つの記録を突合せして実態把握しようなど、元より愚かなことかもしれない。
この年遅く、将軍義持は李氏朝鮮に向けて、外交使節を送った。
現代なればこそ世宗実録を参考に出来るが、これとても列島国内事情を知る手だてにはならない。
今日の記述は、以上だが。・・・・例によって、余談をつぶやく
さて、義持が送った外交使節だが、それは今日的ホンネの話である。
この時足利幕府が、使者を以て世宗大王にお願いした事は、ナンと仏教典を譲って欲しいであった。
仏典云々はタテマエの用件に過ぎない。表向き外交ではタテマエとメンツを掲げて、とぼけを貫ぬく。
ホンネの方は、先の軍事行動は何を狙っての行動か?再び襲って来る気があるかどうか?
使者は心裏を隠してヤセガマンに終始するものらしい。
教典を持ち帰った。
歴史事実として再来襲はなかった。
仏典を求めに仏僧が外国に赴く、実はこの時代において。そのスタイルが外交と一体であった。
外交の第一は、口上と文書の奉呈である。
幸いな事に日本にも李朝韓半島にも漢字があり。双方とも国是は別にして仏教信仰が盛んである。
更に中国文化圏の根底に儒教思潮がある。李朝の国本は、儒教の貫徹にあった。
列島思潮の根底には、律令時代以来このかた儒教が染みている。
儒教が何たるや?宗教の範疇であるかどうか?筆者にはよく判らないが。ここでの本論ではないので、これ以上踏込まない。
要するに、東アジアには共通のコトバは無いが、表意文字なる天性のコミュニケーション・ツールを無意識のまま共有する世界である。
口から発して耳に入る=それが言語学の扱う常識・人が発する音声にまず最初の基礎を置く意思伝達のルールだが。東アジア世界は、声帯を失っても・耳が遠くとも・所謂「漢字」を読み・書きする能力があれば、意思を通ずる事が出来る=言語学第2場面においてのみ機能特化が働く特異な空間域であった。
東アジア以外に例の無い汎世界・書き言葉ワールドである。
しかも、仏教と仏僧なる文字に長け・世界思想とその推進に従事する人的組織体を、二つの国・社会は維持している。
更に丁寧な事に、古い新しいの差こそあるが、根底に儒教ワールドなる共通土台も備わる。
そこで自ずから外交の窓口は僧が担当し、実効も上がり重宝された。
満済のようなお坊さんは、故事来歴にも精通し・東アジア共通語にも日頃から慣れていたので、将軍の前に座して全ての事を聞き・伝え・相談にあずかる・アドヴァイスもする・決まった事を下僚や幕閣要人に内報するなどの全般に関与し、早晩「黒衣の宰相」と呼ばれる存在に昇ったのである。
そこのところを善く弁えた世宗大王は、日本からの願いに応じて教典を渡し。持ち帰る日本の外交使節に添えて、回礼使・宋希景<ソンヒギヨン 1376〜1446。ただし”景”は仮の文字、本来の文字は仮文字を旁に・偏に”王”を加えた字形>を派遣した。
先の稿<=No.67 通信使の17>で採上げた「老松堂日本行録」の著者である。
しかし、彼は最初の通信使ではない。精細に言えば、回礼使でしかない。
もちろん広義の通信使に含める事はできる。
今日はこれまでとします