にっかん考現学No.74 信使よも7

朝鮮通信使と言えば、江戸時代と世上では思っているようだが。厳密に言えば、それは誤りである。
江戸幕藩体制鎖国によって維持されたとイメージする人が多いが,これも正しいとは言いがたい。
鎖国なるコトバ自体=明治的イデオロギー色が強い。いかにも後世的に操作された歴史の感がある。
正しくは”鎖国”に代えて「海禁」と呼ぶべきで、キリスト禁教策たる初期海禁と後期の捕鯨船寄港向けの海禁措置とでは、政策の色合いがかなり異なる。
ここでのイデオロギーとは、文明開化をスローガンに掲げて。自由貿易に転じた明治新政を必ずしも唯一・至当の体制と認めがたいからだが、本論のテーマではないので踏込まない。
さて、朝鮮通信使の始まりは? 
その答も精細に拘り判らないと答えたい。
ここで言う精細の意味は、朝鮮なる国号に拘ってのことである。
韓半島最期の王朝は、1392年から始まった。
国号を朝鮮と名乗ったが、創始者である太祖=李成桂(イソンゲ 1335〜1408。在位1392〜98)の家の名を冠して”李氏朝鮮”または略して”李朝”とも言う。
これは、三国時代の前にあった「古朝鮮時代」とを区別するための言い方である。
太祖が若い頃官人として仕えた王朝を高麗と言う。
高麗と当時の列島政権との間にも、外交官の往復があった。
しかし、それは通信使でなく・まして朝鮮通信使とは呼べない。
よって、朝鮮通信使の始まりは、応永の外寇の後に、終戦処理の一環として始まった外交使節の派遣から後のこととなる。
従って、通信使の派遣回数を江戸期のみでカウントして、12回とか第11次とする言い方がみられるが。
それは極めて日本的表現に傾き過ぎていると言わざるを得ない。
当たり前のことだが、外交は独り相撲では成立たない。
交渉の相手である”李氏朝鮮”が1910年まで存続した<通算519年間・東アジア最長の王朝>から、室町〜安土・桃山〜江戸期の終焉までを通しての『朝鮮通信使』通史を展開したいものである。
さて、以上が本稿の前置である。
9月に始めた通信使よもやま話。
今日の第7話は、前回を承けて「応永の外寇」の続々編である。
第1回目のNo.68でキィーワードを5つ掲げて、まず「倭冦」を。次いで「応永の外寇」と進めてきた。
応永の外寇」とは、日本側の呼び方で。韓半島では”乙亥東征”と言う。
外交課題の場合、呼び名が2つあるのは已むをえない。しかし、面倒くさい。
よって、双方の呼び方を一旦棚上げして。
ここでは『韓寇・カンコウ』と呼ぶことにしたい。
寇とは、他国に攻め込む事だが。間に海という自然バリアーがあると、どっちから手を出したかが判りやすい。陸戦と異なり喧嘩両成敗ルールを持出す必要は無いものの、歴史認識云々はさておき、国境を接するお隣サン同士は、仲良くしたいものである。
さて、韓寇  1419年6月<当時の暦による>対馬李氏朝鮮軍によって侵攻された。
将軍=李従茂が、兵船200艘以上・戦闘員17千人以上を動員して対馬に上陸。約10日ほど戦闘した後に撤退した。
以上が韓寇の経過である。
ところが、読者が日本人である場合、最大の関心事は勝ったか負けたかの一事である。
このような関心は、あまり褒められない。部分にのみ拘り過ぎて、全体が見透せてないからだ。
この国民的性向は、メイジからこっちの軍事専政君主現神史観から未だに脱却できない一面をさらけ出している。別の言い方もある、国民規模の”外交音痴症候群”だ。
そもそも戦闘規模の勝敗つまり戦術的な形勢の首尾なんぞは、初級将校クラスの関心事でしかない。
さて結論を急ごう。
軍事行動全体の帰趨は、『韓』側を利する結果となった。
攻撃を起こした”李氏朝鮮”は、所期の成果を達成した。
『韓寇』以後倭冦の働きがピタリと収まった=その一事をもって間違いなくそう言い切れよう。
勿論、東アジア・スパンで眺めれば、”倭冦”自体は収束していない。だが、『韓寇』が終った後に大変化が生じた。『韓寇』後の”倭冦”は、専ら半島を回避し・しばしば大陸=中国沿岸に向かった。
『韓冦』は、只の1回きり。僅か1ヵ月のごく短い軍事行動であったが、戦後に得た成果は実に偉大であった。あの恐ろしい”倭冦”は、ほぼ180年の間、半島に向かわなかった。
気になる人のために180年の平和を壊したのは、果してどっちだったろうか?
答えは”倭冦”=鬼の秀吉・清政が2回も襲った。
以上が「応永の外寇」の成稿である。よって以下は余談となる。
”倭冦”に肚をたて・室町幕府4代足利義持の手のひらを返すような外交仕打ちにしびれを切らして、『韓冦』の軍を送ったのは、李氏朝鮮第3代国王の太宗(テジョン 1367〜1422。在位1400〜18)である。
精細に言えば、『韓冦』時の王は、第4代世宗(セゾン 1397〜1450。在位1418〜50)だが。軍事・外交の大権は、上王の実父が握っていた。この当時日韓ともにリタイアした古狸が、実権を握ったまま息子を遠隔操縦する慣行があったようだ。
4代目=世宗は、3代目の3男・初代=李成桂の孫に当たるが、歴史上稀に見る明君であった。
陸戦10日全期間1月以内の短期行動に収めた=所謂終戦処理は、息子の影響力であったかもしれない。
その背景を想像たくましく展開しよう、下記に列挙する。
   1、対日軍事行動において、海戦は韓半島サイドが強く・陸戦能力は列島サイドが勝る傾向がある
   2、釜山・対馬間の海峡幅は約50km<対馬・日本列島主島間より短いが、軍事補給ラインとして長過ぎる>
   3、易姓革命草創期<未だ建国後30年に満たない>にあって、負担が長期かつ重い軍事行動を回避したい
   4、韓半島の北はユーラシア大陸に連なる紛争多発・火薬庫ゾーン、南方に集中・固着を避けたい事情がある
余談の続き。対する日本の内情はどうであったか? バランス上箇条書きにしよう。
   1、室町幕府は、前政権である鎌倉武家政権を倒し。王政復古を狙う南朝皇統との駆引に明暮れ、弱体かつ不安定な権力であった
   2、応永の外寇に先立つ国外脅威。当時記憶にあるは”元寇(応永1274 弘安1281)の危機”
   3、その元寇は「何もしないうちに勝手に消えてしまった」・・・・他国に侵されない神国だ・そんなコンセンサスが湧き・固まった
   4、神国観想から対外封鎖の国民感情が確定した。対外無関心と外界封鎖の国是=確信性外交音痴病と言おう
   5、元寇は蒙古と高麗の連合軍であった。その知識は現代の歴史知識にすぎない。果して当時の列島人が持合せていたろうか?疑わしい
   6、1419年の『韓冦』は、高麗を倒した李朝が仕掛けたが。列島人はその事実すら知らずにいたかもしれない
   7、もう1度来たら。どうしようか?・・・”元寇は2度来た”ことや囲碁の定石<二石で捨てよ?>を連想した?
遂に足利義持(リタイアした前将軍だが、実権は大御所の彼に)は、外交使節を送り、李朝の出方を探ろうとした。
この続きは、明日やります