にっかん考現学No.73 信使よも6

信使よもやま話は9月から始めた、通信使を日韓間で派遣するに至った背景・事情を考察するシリーズだが。今日の第6節は、シリーズ第1稿=No.68で掲げた5つのキィーワードの第2語=「応永の外寇」の続編である。
室町幕府第3代将軍=足利義満(よしみつ 1358〜1408.将軍在任は1368〜94)が、言わば生涯をかけた対明国交は1401年に成立し、念願とも言うべき勘合貿易も1404年から始まった。
しかし、1408年その義満が急死して間もなく明国との外交・交易は、デッドロックに載上げることとなった。
さて、このシリーズが目ざすものは、『にっかん考現学』の中の通信使・編であるから、あまり対明問題に時間を割く気はないのだが。広く東アジア規模で、日・明・李朝の関係を抑えておかないと。1419年応永の外寇と言う対馬への軍事侵攻が、李氏朝鮮により起された意味が理解しにくい。それで、いま少しお付合いを戴く必要がある。
さて、あの義満は、父・義詮(よしあきら 1330〜67。第2代将軍・在任1358〜67)の実子だが。父の急逝を享けて9才か10歳の年齢で1367年後継第3代に就き。そして自身も36歳に至って、これまた実子・義持(よしもち 1386〜1428。第4代将軍・在任1394〜1423)に将軍職を譲った。
譲りを享けた側=義持の年齢が、8歳くらいだから。1394年の将軍更迭は、あくまでも形式であって。権力統治の実権は、引続き前将軍の義満が握っていた。
足利幕府を通じての対明外交の成果は、その殆どが義満の院政期間中(1394〜1408)に実現し。彼の死とともに対明ルートは消えて行った。
本節の主題である日韓間の国交もこの頃成立している。
李氏朝鮮に対する使節もまた義満の側から発遣されたが、細部に渉れば李朝自らの意志による外交受諾は憚られた。
それは既に朝鮮国が明の冊封を受けていたからである。つまり朝鮮も日本も明の朝貢国である点では共通だが、外交関係を樹立する思想なり・作法なりが。当時の東アジアでは、まだ想定されてなかったようである。あえてその答を推定してみよう。
とにかく身分の上下を金科玉条と考える儒教思潮では、外交と云えども”対等互恵の関係”を想定することが難しかったのであろうか?
現代人の頭では理解しにくい推定である。
さはさりながら、室町政権と李氏朝鮮との外交関係は樹立された。
その背景は、これも筆者による推測だが、双方に交流メリットがあったからであろう。
当時の列島と半島では、文化水準に圧倒的な差があり。先進文物を輸入するメリットの方が、朝貢の位置に立つデメリット(外交メンツで譲歩すること)を補う。と、義満は考えたのであろう。
半島サイドの外交メリットは、明国と同じであったろう。義満の力を以て”倭冦殲滅”が計られることを期待していた。
外交権を持つ征夷大将軍の職位は、世襲であったから。実権者・義満の死後、実子後継の義持将軍によって、外交政策は引き継がれる筈であった。
ところがそうならなかった。・・・当時の常識的な通念に反して・・・
1411年足利幕府側から明&李朝に対して、外交関係断絶を招く対応措置が為された。
具体的には、明国の外交使節が兵庫の港に留め置かれ、都である京に入ることを義持が認めなかった。
長期に放置され、港から明国外交使節が行った働きかけ<入京・会見の要請>も無視され続けた。
結果、使節はそのまま帰国した。
その後も明サイドは遣日使節を送ったが、義持が心変わりする気配はみられないままであった。
大陸と半島サイドは、”倭冦殲滅・取締”を求めて国交再開の熱意が強かったが。その対日外交は、復活をみぬまま推移した。
そして、遂に1419年李氏朝鮮は、対馬を軍事侵攻するに至った。
応永の外寇李氏朝鮮では、己亥東征と言う。
己亥東征に走るほどに、韓半島沿岸から内陸部にかけて、大群で押し寄せる”倭冦”の暴虐行為は酷かった。
食糧の略奪・市民への暴行・奴隷獲得のための拉致など、国の無策をなじる半島国民の声は充満していた。
結論を急げば、当時の足利幕府には影響力を遠く西の端である西海道の地に及ぼすだけの実力も熱意も備わっていなかった。
そして外交の煩わしさに関与するほどの忍耐心を、義持とその幕閣は持合せなかった。
いささか余談だが、義満・義持の親子仲は良くなかったらしい。そのことが外交理念の承継がなされなかった一因と考えられないこともない。
今日はこれまでとします