にっかん考現学No.72 信使よも5

通信使よもやま話シリーズは,9月29日=No.68稿から始まった。
「通信使」は日韓間における外交使節として14〜19世紀(列島では室町幕府〜安土桃山〜江戸幕府の時代だが・韓半島では一貫して李氏朝鮮時代であった)を通じて断続的に来日した。
このシリーズでは、通信使派遣に至った背景・事情を考察する。
シリーズ第1稿=No.68で5つのキィーワードを掲げたが。最初の話題として既に述べた「倭冦」に続き、今日から「応永の外寇(おうえい/がいこう)を採上げる。
この2国間トラブルは、日本の年号で応永26=1419年に起きた。
事件を概述する。朝鮮軍対馬を侵攻し、間もなく立去った。
当時列島における権力者は、足利義持(1386〜1428 あしかがよしもち)=室町幕府第4代将軍(在任1394〜1423)であった。
対する侵攻サイド=韓半島の権力者は、世宗大王(セゾンデワン 1397〜1450)=李氏朝鮮第4代国王(在位1418〜50)であった。
さて、事件の経過をいささか論ずるが、その前に当時の東アジアの情勢を概略理解しておこう。
中核に位置する大陸枢軸空間は、明国が統治していた。
1368年太祖(=朱元璋。貧農の孤児であった境遇から身を起こした漢人)が、先の王朝である元(ゲン 蒙古人が統治するユーラシア規模の国=存続は1271〜1368)を打倒し。漢民族の国を再建したもので、再び中華思想の高揚が著しかった。
その縁辺に位置する韓半島も、1392年高麗の軍人から身を起こし、倭冦を連続撃破して立身出世した李成桂(=後の太祖。明から建国を承認されて初代国王となった)が、高麗国を滅ぼして李氏朝鮮を建国した。
大陸から孤立した日本列島は、1333年に鎌倉幕府を倒して室町幕府が成立していた。
足利氏を征夷大将軍とし幕府を京都に置いたこの武家政権は、成立早期から朝廷の皇位継承に関与したため。権力抗争に明け暮れ、列島西端部の倭冦発源地帯への目配りを欠いていた。
なお、倭冦のことは直前の3つの稿で述べたので参照されたい。
更に東アジアの国際情勢をもっと詳しく絞り込む。4代義持の父=第3代将軍義満の外交事跡を略述する。
対外関係に積極的な点において足利義満(よしみつ 1358〜1408、将軍在任は1368〜94)は、列島人として希有な変人であった。
彼は1374・1380と2度に亘り対明使節を送ったが、国王に相応しくない立場であるとの理由で拒まれた。そして1401年に発遣した3度目の使節は受け容れられて、時の明国王=建文帝から日本国王冊封された。
この時の彼は、既に将軍職を辞し・朝廷官職の太政大臣も辞め・出家、所謂無官の立場であったが。
それでもヒットを飛ばせたのは、単に3度目の正直からかもしれない。
いささか脱線気味でもっと突っ込むと。明サイドは、1374年段階で交渉相手として南朝懐良親王を「日本国王」としていたとの説もあるので、明治政変以後に公けとされた南朝を正当皇統とする国学の風潮がこの時既に大陸=明国まで伝わっていたのかもしれない<笑・笑>・・・筆者は三種の神器に拘る立場ではないが、当時南朝が保持していたそれは1392年10月北朝側に引渡が済んでいた。
この際、日明外交が樹立された背景を更に考究すると、
  ○ 1383から相国寺の建立が始まっていたこと
  ○ 1388義満が安芸の宮島に参詣したこと
  ○ 1392明徳の乱終わり、山名氏家が屈服し、入京を許したこと
  ○ 1395九州探題今川貞世を退けたこと
  ○ 1398応永の乱により、大内義弘を滅ぼしたこと
などが特筆される。
更なる詳述は回避するがいずれも、外交交渉窓口の整備であり・障害となるであろう交易ルート上の実力者排除である。
要するに国交権の樹立と安定に必要な”庭掃除”であった。
とまあ、廻りくどく説く・アトでつけたような理屈だが・・・・
本日の残り紙数も僅かなので、そろそろ纏めたい。
”明サイド”のホンネを推し量ろう、未だ40代の実力者=義満に期待するものがあった。
明は彼に「倭冦退散」に勤めて欲しかったのだ。倭冦被害は明国を滅ぼしそうな勢いであったらしい
”対する義満”は、対明外交になにを狙ったか?
筆者の推定では、「交易の利」であったと思う。
得た利益の使い道、それは仏寺の整備であった。より突っ込むと、出家した元武士の立場でする相国寺への寄進であった。
  ○ 1401日本国王冊封され日明国交は正式に発足した
  ○ 1404日明間の勘合貿易が始まる
  ○ 1408義満が急死する<享年49歳>
義満は、生涯希求した大事が成って安堵したか 呆気ない最期であったと言えよう。
倭冦の撲滅・退散は、さしたる努力もなく・効果も無かったようである。
彼のみが、”大事”とみた対明外交も。大向こうの評価はそれぞれであった。
冊封朝貢などは、当時の在京貴族から屈辱外交と蔑んだ目で見られていた。
 * 有職故実・先例盲襲で権力にしがみつく公家は、後から来た実力武家の排除=権力回復を念じていた
 * 対外交渉は、894菅原道真の献策により廃止され、既に約500年以上経過していた
    <因みに外交権は、鎌倉幕府成立により朝廷の手を離れていた>
 * 対外重大事件たる「元寇」は、何もしないまま危機は去った。皇国は神国との認識が確定した
     <文永の役1274 弘安の役1281とも言う>
 * 四方を海に囲まれながら対外封鎖を国是とする風潮は、列島全層に及んでいた
その日明国交は10年と続かなかった。そこに至る道筋は次回に採上げることとします