にっかん考現学No.70 信使よも3

先月から始めた通信使よもやま話の第3稿である。
通信使が始まる事となった時代背景について、このシリーズの第1稿(9月29日・No.68)で掲げた5つのキィーワードのうちの「倭冦」についての続稿である。
前稿で、倭冦がボーダー・ビジネスの一形態である旨を述べた。
権力の規制を嫌い・飽くなき自由の天地を求めて、国の領域に拘らず移動する能力を備えた者が、ボーダー・ビジネスを営む者であった。このように表記すると,前稿で「倭冦」は、すなわち日本人と考えるべきでないと述べた事情がはっきりしたことであろう。
「倭冦」の親玉の多くは、中国人や朝鮮人であったと思われる。
外洋を跨いで対岸との間を行き来する・しかも武装して戦闘をも辞さずとの姿勢を保つ。
この2つ、つまりダブルリスクは、陸地に定住して行う生業に比べると遥かに困難の度合いは高い。
しかし、板子1枚を挟んで海底に没する・戦闘の場に臨んで生命を落とす。この心構えを持合せた者が、鎌倉〜室町〜戦国にかけて生きた人物の中には、少なからず多数存在したし。決して特異な人物像でもなかったことであろう。この時代列島以外の中国・韓半島=東アジア世界のどこにも平和はなかったのである。
その時代の人の心情をこの平和な時代に生まれ育った我々が理解しにくいだけである。
カラダを張って生きるしか術がない当時、海賊集団のほうがダブルリスクである以上。危険度において抜群であったが、海に逃れ・神出鬼没に気晴らしをする気楽さもあったであろう。
この背景で「倭冦」の親玉は、東アジアのどこから輩出されてよいのだが。実際にはその多くが中国人や朝鮮人であったろうと既に述べた。その主な理由は、大型船建造・運航の資本力を勘案したうえでのことである。
実は「倭冦」の親玉は、ほとんどがダブル・フェースであった。ある時は貿易業者の顔・そして別の場面では戦闘集団の雇い主の顔を持ち、時々に使い分けていたのである。
何度も同じ事を繰返すが、この時代は現代のように貿易自由の思想もルールも存在しなかった。この時代概ね海禁=所謂鎖国=の原則が常態であったし、権力サイドの考え1つで,猫の目のように激しく私貿易への対応措置・取り締る姿勢は変化した。
一見妙に思えるが、海禁政策が厳しくなるほど=比例して密貿易品の取引価額は高騰して、リスクをくぐり抜けた代償は大きかったであろうし・逆に規制が緩くなると一転したように貿易品の引取価額は低下したのであった。これは、現代でも麻薬の禁輸措置が国ごとに微妙に異なるのと同じで、麻薬管理が厳しくなるにつれて麻薬のヤミ価格が高くなるのに似ている。
東アジアの中で日本人が、「倭冦」の親玉になりにくい。
この事は推定でしかないが、おそらく当たっていると言える自信がある。
それは、当時の列島の文化水準の低さに由来する。
詳しくは残り4つのキィーワードを順次採上げる過程で述べることになろうが、外洋航行に耐える船の建造や航海工学の点において特に見劣りした。
帆船航行の動力源である帆布、それは現代ではエジプト綿などに代表される木綿製の布が常識だが、当時において木綿の布は、高級品であった。
特に当時の列島では、未だ国内栽培が困難のため。超級の貴重物資=舶来品であった。
そんな船の基幹資材の入手難こそが、「日本人が倭冦の親玉」になりにくくする最大の理由とする所以である。
でも、侵略実行部隊の基幹的人員=中堅幹部層から末端戦闘員の中には、多数の日本人がいたようだ。
だからこそ襲われた側=被害者サイドが、「倭冦」すなわち倭人集団が襲ったと早合点した。しごく当然である。
日本人戦闘員供給は極めて容易であった。その背景=列島内に人材供給リクルート・システムが存在した。
鎌倉〜室町〜戦国、武士が何事も自力で物事を解決する風潮が流行し・長く続いた時代。規模の大小を問わず、武力抗争・小競り合いが日常茶飯事に起っていた。
そこで多発するのが、死人・ケガ人・敗残者の類いである。すべての死者と勝者サイドのケガ人は、比較的に決着が単純だが。
複雑にしてリクルート・システムに絡むのが、敗者のサイドである。怪我の有無にかかわらず捕虜になった者は、奴隷であるから。かなりの割合で、国外に売飛ばされて、「倭冦」の手先になったはずである。
加えて列島内に奴隷供給業があった。別名はヒトサライとも呼ばれる。
彼らが出没する場所は、概ね固定していた。多くがお化けの出る場所と重なる。柳があることが多い。
道路と水路とが交わる所=橋が造られる位置に当たる。日本各地に人取橋<ひととりばし>なる地名が残っている。
参考文献・・・

木綿以前の事 (岩波文庫)

木綿以前の事 (岩波文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

今日はこれまでとします