にっかん考現学No.62 通信使の12

朝鮮通信使のゆかりの地を訪問する旅のレポ−ト2番目は、鞆の浦・編であるが、今日はその第2稿である。
日本の建築は、世界の建築とどう異なるか?
設問は容易だが、的確な答を見いだす事はとても難しい。時に外から建物の外観を眺めるだけで、内部に入ることが許されない事があるから,素人には一層難しい。
さて、建物と庭の関係はどうだろうか?
庭が形になるのは建物以上に時間がかかるし、庭造りはまたとても奥深い業であろう。
室内から前面の庭を眺める。運良く室内に座り込めたとしよう、少しの時間そこに坐れても。果してどれほどの事が判るだろう?
朝・昼・晩の庭のたたずまいを、時に春・夏・秋・冬のそれを。
想像し、再現してみる力など、、、そんな能力を全く持合せない。
借景の庭と言う辞がある、うまく説明できるつもりはないが、室内から見える屋外を含めた自然期を庭と見立てるものとしておこう。
鞆の浦にある対潮楼の庭もまた、借景の庭と考えてよいのではないだろうか?
借景の庭は都合が良い。庭師にかかるコストが不要だ?
ただし景観の永続製に主体性がない。そこが最大の弱みである。
借景の庭には、時に動くものがある。海の上を行く船も景色である。
スケールの大きい借景、鹿児島の磯庭園や下関・壇ノ浦などだ。
本土側から仙酔島を眺めた。古い時代の眺めを維持しようと努めているようだ。
連絡船がある。ちょっと見には異様な黒船である。
あとで知った事だが、名前が平成いろは丸だとか・・・・
やはり黒船だから、すっかり真っ黒にして良いのである。
色に引いて乗らなかったわけではない。仙酔島に渡り,島に立って本土側を眺めた時に見える景色を想像した。
乗れなかった。
護岸・ビル群・・・コンクリート製の醜悪な構造物を対岸から眺めたいとは、全く想わなかった。
鞆の浦が福山のうちであること。それは現代の常識だが、はじめて現地に来て判った事だが。
イメージに合わない感じは、現地に来て一層固まった。
もちろん福山の駅付近で、昼食をとった。うずみご飯が名物だと美術館で仕入れた知識を活用した。
美術館と城跡と新幹線の駅とは一場のうちであるが、福山の地理のほぼど真ん中にある。
普通そんな処には、近寄らない。
予備知識なし、ぶっつけ本番の旅だから。福山も初めての訪問だったが、ナヴィに従って美術館に行った。平日だったから楽に?車を駐めることができた。
草戸千軒を見てみたい。それは、旅だつ前から考えていた。時代的に通信使とは無関係だが、遠路のついでであり、それほど容易に行ける距離でもないから、ウエートの重いほうの”ついで”の立寄であった。
芦田川の辺りを徒歩でしばらくウロウロした。予想外に国宝・重文の本堂や塔なども仰いだ。堤防の上は市街中心を迂回する間道になっているらしく、車が五月蝿かった。今時、歩いて川の近くをうろつく人も珍しい。それでも3人の人を捕まえてインタビュウした。
八幡神社の巫女さんから話を聴いて、美術館に行くしかないと肚を決めた。事前勉強をしない旅は然様に非効率なものであるが、現代の巫女さんは、いでたちも古式だが、いやがりもせず対応してくれた。お礼のつもりで、お賽銭を入れてきた。筆者にとってそれはごく珍しいこと、柏手も頭を垂れることも原則しない無宗教である。
草戸千軒町遺跡(くさどせんげんちょう・いせき)は、既に失われた中世(鎌倉〜室町)の港・市場町遺跡であり。当時の庶民生活を再現した実物大レプリカが、福山城跡公園内の広島県美術館の2階にある。
現地は発掘時既に川の底で、発掘終了後も史跡指定無く埋め戻され跡形も無いらしい。これは想像だが、千軒町の伝承を真に受けると、その市街地は現在の福山市街地の下にも及んでいたと考えるべきである。
前稿でちょっと書いたが、律令時代備後国を設けた際の国庁は、神辺<現福山市内>に置かれ。そこが当時の海岸線付近と書いたが、これはあくまで文嫌記録の受売りであって現地に行っていないのだが。
芦田川の暴れ川ぶりは、この大都市の変貌を果たす主な原因となったのであろう。もちろん、江戸時代の初めに就封着任した譜代大名水野氏の築城ならびに城下町再編成の土木事業は、河川の流路を付替えするまでの大規模なものつまり干拓と呼べるような規模だったらしい。
その事が、老中クラスを輩出した徳川家門中名門の阿部氏を招き入れ、明治以降もウオーター・フロント開発を呼込み。工業をも導入する産業都市へと大変身させる原動力となったのであろう。
さて、鞆の浦の締め括りだが、仙酔島渡航船の船名「いろは丸」に因む話題をもって,本編終講と致したい。
いろは丸とはどこかで聞いたような名だが、すぐには想いだせなかった。
宿の近くに記念館があったのだが、そのことは訪問中に気づく事は無かった。帰宅後に想いだして調べて判った。事前勉強の無い旅はそんなものである。
坂本竜馬は、対潮楼を訪ねたことがあったのだ。俗に日本最初の海難事故トラブルと言われる(本邦最初そんなことはありえない。ただ、帆船時代も船の衝突事故はあっただろう。がしかし、木造帆船の衝突事故は軽微な規模に留まり、かつ損害賠償は和解で収まったことであろう)が、その交渉のために龍馬は対潮楼に数日滞在したと言う。幕末最後の年ー慶応3<1867>年旧暦4月に原因となる海難衝突事故は起った。衝突の結果間もなく竜馬が乗船したいろは丸は沈没した。海没から約120年経過した1989年,海中に眠る船体が発見されたので、海難位置は正確に把握されている。
しかも2009〜10年に亘って、現地調査が行われたので。司馬サンの作り上げた龍馬像は、かなり修正を要する意外な事実が判明した。
しかし、それは本稿の主題ではないので、ここでは明治前夜における海難事故と賠償の話題のみを概述するに留める。
龍馬の乗った黒船は、動力運行<厳密には機帆船>・鋼製で、国外建造のため、高価極まりなかった。
竜馬は黒船いろは丸の持ち主から借受けて、長崎から荷を積んで出航し、大阪港を目ざして瀬戸内海を航行中であった。
衝突した相手の船名は、明光丸と言う。こっちの船もまた英国建造の黒船であった。
大阪港を出て長崎に向かって航走中であった。
衝突したのは深夜23時ころ、備中・国 笠岡諸島・六島付近の海上であった。
いろは丸は航行不能となり、乗員全員が相手船に移乗した。船舶修理できる直近の海港=鞆の浦を目ざす事となり、明光丸に曳航されて走る途中いろは丸は海没し水中に消えた。
人損は無く、乗員は鞆の浦に上陸した。間もなく龍馬は相手船と損害賠償を始めた。
しかし、相手船は、数日後無断で出航し,姿を消したのであった。
黒船同士が衝突すると、木造帆船時代とは問題にならないほど、つまり当時多くの日本人が経験した事の無いような大被害となったのであろう。その意味では列島海難史上最初の大規模物損事故であったであろう。
海難事故の抑えとして,彼我の関係データを端的に対比しておこう。
    ○ いろは丸は160t、持ち主が伊予大洲藩<藩主は加藤家、外様大名。6万石>
    ○ 相手船明光丸887t、持ち主=紀州藩<藩主徳川氏、親藩
龍馬は、直ちに追いかけて長崎に到達した。
賠償交渉は、長崎奉行所において。運航者側である海援隊・土佐商会・土佐藩と相手船側の紀州親藩との間で行われた。
龍馬が主張した被害補償要求は、方外なものであったらしい。水没した積み荷は、銃器に金塊など格別高価な品であったとか・・・当時は海中調査も海底からの引揚も困難であった。
減額申し入れがあったり、色々あったらしいが、紀州藩が支払いを行った8日後に龍馬は京都で暗殺死した。平成の海中調査でも水没船体や周辺海域から銃器類も金塊も発見される事は無かったらしい。
司馬サンが作り上げた龍馬像の妥当性・信憑性についてはよく判らないが、一代の風雲児であった事はほぼ間違いないであろう。
今日はこれまでとします