泉流No.116 東月西陽

* 兎起つ  茜黄金に  薔薇入道
[駄足] ウサギたつ  あかねこがねに  バラにゅうどう   と詠む。今日7時過ぎ、河北潟の近くを走らせながら家路を目ざした。
頭上の天空ショウを一望しながら、天界の刻々と移り行くさまを仰ぎながら,金沢の街の縁を迂回した。
ざっと30分程度の天空ショウだが、運転をパートナーに代ってもらったのが幸いした。
夏至が過ぎてから約1ヵ月、日がまだ長い。
スタートした時、そこにある月に気がついてなかった。
兎はまだ眠っていた。
北陸の月は、東にある山の端の上に出る。
これは筆者の生まれ育った環境である日本海側に共通した天然事象だ。
名月と言えば東山、夕日は西の海に。
これが体感にある光景である。
反射的に西の方を仰いだ。南北に長く棚引く横雲があって、太陽は無かった。
月も日も一望できる環境は、そうザラにはない。
ここ河北潟の西の縁は、海風が長年の間に積上げたであろう高層ビル並の砂丘がある。潟の畔から海面は全く見ることができない。
よく見ると、砂丘の頂上の上の辺りが茜色である。横雲の下が切れているらしい、豊旗雲をみれるかもしれない。
もう一度,東の空を見あげる。山の上に5〜6本の入道雲が立上がっている。鮮やかに白い。
全体に夕暮れが迫る気配の中で、そこだけが光っている。入道雲の空は未だ夕景の時間帯ではなく、そこには昼の名残で・強い太陽光がじかに届いているらしい。
月と入道雲は、ほぼ同じ高さだ。でも兎は、太陽の出番に合わせてまだ眠りの中にいるようだ。
少し走った。
天空ショウは大きく様変わりしていた。砂丘から遠ざかったせいで、陽光が直接達するような位置に来ていた。
間もなく、横雲の下から夕日が現れた。茜色に染まった雲の縁、黄金色の夕日に見とれていた。
それからゆっくり振り返ってみた。
いつの間にか入道雲は形を変えており、もはや2〜3本に減っていた。
すっかり太くなって、薔薇<ばら>色似淡く染まっていた。
落日は、刻々と進んでいた。ばら色は少しづつ暗転して行き、背景の空にやがて溶込む風であった。
いつの間にかウサギは、すっかり起ち上がっていた。
あたりを払うほどの明るさを増したウサギ、十三夜くらいとの始めの目測はおお誤り。
ほぼ間もなく十五夜を迎えようと言う、十四プラスα歳の臨望寸前度であった。
夕日が落ちたら、吾が躍動する夜の始まりとばかりに。すべての光をそこに集めていた。
[駄足の蛇足]
○ 豊旗雲は、その昔 万葉集に出てきた。瀬戸内海航行の途上に額田王が詠んだ。白村江の戦に備えるべく、時の朝廷は,女子供を引連れ大挙して西日本へ向けて移動の最中であった。
従って、吾が描く豊旗雲は見当違いかもしれない。
日本海と瀬戸内海とでは、時空スケールも海の広さも異なるであろうし、体験の乏しい瀬戸内の海や遠い万葉の頃の天候・気象を偲ぶことも難しい。
○ 河北潟の水系、金沢市内を流れる浅野川が注ぐ湖沼である。河北潟の水は、大野の口から日本海に流れ出る。河北潟の河口は、現代の金沢港でもある。
○ 河北潟は、往事の何十分の一に縮んでいるか?定かでない。戦後の行き過ぎた土木政策の余波を免れ得ず、回復不能の自然壊変となってしまった。
水面のほとんどが、水田と道路網に・一部が競馬場と住宅団地と置き換わった。
ただ地形だけは、基本的にフラットさを留め。一望のもとに夕日と名月を仰ぎ見る環境を保っている。
河北潟干拓のパイオニアと言えば、海商一代=銭屋五兵衛である。北前船に政商的機能を始めて付加え、大きく飛躍した人物だ。
海上で形成した利益を干拓事業に投資して、開発地主として陸上界に転身・多角化しようとしたタイミングで失脚した。
彼が加賀藩から資産没収の憂き目に遭った背景は謎であるが、藩財政再建の切り札とされたのか?幕府から藩に向けられた密貿易の嫌疑を逃れるための捨て駒にされたのか?そのいずれかであろう。
海禁・海防政策が破綻し、やがて開国・大政奉還を迎える前夜。銭五の船はすでに、北はカムチャッカ・南はタスマニアまで到達していたようだ。
彼の本拠地宮ノ越(現在の金沢市金石港)ーつまり北陸の地は、あまりに日本列島のヘソ地帯に近過ぎた。その地理が災いの主因だったのではないか?
京都に地政学的にも・人脈的にも近い北陸=加賀藩が、幕末の大変革期に殆ど動かなかった。
銭屋五兵衛の大活躍と処分の一件が、その土台となったかもしれない