にっかん考現学No.61 通信使の11

今日から通信使ゆかりの地を探訪する旅のシリーズ中2番目の港=鞆の浦・編を届ける。
鞆の浦は、国指定の名勝・公園であり、景観良好の地だ。
朝鮮通信使の宿館としては、牛窓のすぐ西に位置する港=前泊地である。
鞆は、現在広島県福山市に属する。戦後の合併により福山市編入されたもので、古くから知られた交通上の要所であり、港としての機能も勝れていた。
港があって・寺が備わることが、大阪以西における通信使寄港地として選抜される要件である。鞆にある名刹・福禅寺の対潮楼(たいちょうろう)は、景観にも恵まれていて,特に有名である。
ところで,早速余談だが。「たいちょうろう」は、宛字の誤りで。鯛釣楼と書くべきであり・意味もストレートなのだと想い込んでいた。しかも念入りに”鯛の浦”と検索ワードを打込むものだから、何で千葉県が画面に出るんだー通信使の経路になりえんぞとばかりに、何度もつまずいた。
現に鞆の浦は、鯛の名産地でもある。
とまあ,そんなわけで、鞆とは何か?を調べることに付合ってもらいたい。
初めての訪問地とは、事ほど然様に、道草道中となる次第である。
鞆の港は、相当に早くから知られていたらしい。古代の文献に備後(びんご)国沼隈(ぬまくま)郡所在とあるそうだ。
律令時代、建国の基準が厳密に護られていたようだ。吉備国が3つに分かれて、備前・備中・備後の3国が成立した。が、成立の年月は実はよく判らない。専門家によれば文武天皇元年<AD697>まで確実に遡れる<=所謂文献上の初見>らしい。
そして最初の備後国府は、深安(ふかやす)郡神辺(かんなべ)の地に置かれ。その国府建設および官人往来の港に使われたのが鞆の港であった。天然の良港たる所以であろう。
良港の要件の第1は、水深である。鞆の浦の前面は備後灘(びんご・なだ)だが、平均水深は約20mだと言う。現在では神辺も鞆も福山市のうちである。しかも、神辺は、かなり内陸にある。が、かつてそこが海岸線であったと言う。
福山は、現代瀬戸内きっての交通要地にして・流通・近代工業の集積地として繁栄するが、その立地の殆どが、近世以降の埋立てにより形成された土地であるらしい。
備後国府建設の頃=約1,300年前は、海面の下にあって。江戸期以来のウオーターフロント開発で成長した新興都市だから、地球温暖化による海水膨張により、近い将来海底下に没する懸念なしとしない。
その不安は、海岸民族の悲哀にして避けられない、まさに海辺の楼閣であろう。
だいぶ脱線したので元に戻るが、鞆のような優良港湾は、瀬戸内海のうちにゴマンとありそうだ。
その辺の事情を確かめるには、海から船に乗って鞆の港に入る事を体験したいもの。実感的検証がよい。今回陸路からマイカーで訪ねたのは、その意味でも予備的偵察行動と言うべし。
さて、鞆の名の由来だが、彼の地の伝承によれば、
    港周辺つまり海域の形が『鞆』(とも)に似ているから・・・・
    韓半島から凱旋の途上,この地に立ち寄った神功皇后が、愛用の『鞆』を外して、この地の沼名    前(ぬなくま)神社に奉納した故事による・・・・
などがあるそうだ。
そもそも『鞆』とは何ぞや?  弓の道具のうち。
8世紀までは弓を持つ腕の内側を守るために使われたが、14世紀頃には既に使われなくなって忘れられ、現物が正倉院に宝物として残るとか。
余談のついでに、分国と命名の事を語りたい・・・・余談のパート2
旧国名など何の現代的意味があるか?県名と県庁所在地くらいしか試験には出ないだろう・試験が終われば何も頭に残らない。このような賢い生き方が出来ない愚物にしてどちらかと言えば、筆者は物忘れが悪い方であった。
実は旧国名は、明治政変の際に行われた廃藩置県の直前まで使用された。
幕藩江戸時代は、列島に約300藩に分かれて地域主権が行われた。地域主権による分割統治は、約300パターンもあって、概ね300年間も続いた。明治からこっちの約2倍の長い期間だ。
明治新政府は、何らの合理的基準を設ける事なく6分の1の47都道府県にシャッフルした。あえて、行動原理の根拠を探れば、ただただ前時代のやり方を否定し・旧制度を破壊することにのみ汲々とせわしなく立ち働いただけのようである。
その点で、旧国名律令なる基準とすべきルールが存在した。文明とは、万人が拠るべき公準が明示されていることなのかもしれない。
元の国名である「吉備(きび)・国」は、この地の特産物であったであろう黍<きびorキミ。モンゴロイドの基幹食糧と同字だが、トウキビとは異種かも?>に由来した命名であったろう。
分国にあたり、元の国名から1字を選んで、2分する時は「前・後」3分する時は「前・中・後」を加えて新国名とした。前は地理的に都に近い事を原則としたようで、上述の例の他に「越(こし)国」から分かれた「越前・越中・越後」がある。
余談のパート3
都に近い「備前・国」の更に北に「美作(みまさか)国」がある。そして上述例の「越前・国」と「越中・国」との中間に「加賀(かが)・国」がある。
いずれも元の国からすれば、第2段階で分国が行われた<美作・国は和銅6=AD713年/加賀・国は弘仁14=AD823年>例だが。第1段階<元の吉備・国が上述した697年以前/元の越・国が伝承によれば天武天皇末年=686。文献上の初見が持統天皇6=692年)の”元の国名から1字を選ぶ”ルールがネタ切れしてしまい、仕方なく?縁も所縁も乏しい新字素を捻り出したようである。そのため、元の国が何処なのか?字面から類推することは叶わなくなっている。
今日はこれまでとします