にっかん考現学No.60 通信使の10

朝鮮通信使チョソン・トンシンサ>の故地を訪ねる旅の報告編=牛窓レポートの第5回である。
この地にある通信使資料館=海遊館についてのレポートは、第2回に述べており。それ以後はほとんど蛇足駄弁だが、今回をもって牛窓の回は終わりとしたい。
残るテーマは、唐子踊り<カラコ・踊り>である。
この衣装は、海遊館の入口に等身大の人形が飾ってある。2人の子供が対になって踊る姿で、一見して異国の風俗である。
唐子踊りが、奉納されるのは。牛窓八幡神社の秋祭り=最近は10月の第4日曜日である。
実はもう1つある。これも牛窓にあるそうだが、疫神社<ヤク・神社>の祭りにも唐子踊りが出ると言う。
海遊館の展示、或はこれは併設と言うべきかもしれないが。疫神社のだんじりが、置かれている。
だんじりは、祭りに街中を引いて廻るもの=山車<だし>のこと。
各地に各様の山車を観るが、牛窓・疫神社のそれはほとんど船のカタチをしている。
船の舳先が、特別なカタチ=竜頭に作ってあり。これは通信使の船を模しているらしい。
因みに船型の山車、つまり船をモチーフにした船山の例だが。
船山についての筆者の記憶を2つ述べる。
まず長崎おくんち長崎市にある諏訪神社に奉納される龍船・唐船など。
出島は幕藩時代の唯一の外交用公設施設であった。そのため長崎の地は、中国・オランダ交易に由来する異国情緒の演し物が多彩らしい。なお、長崎は朝鮮通信使が経由しない港・地に当たる。
最後の船山は逆方向の北海道にある、江差神大神宮渡御祭の演し物13のうち唯一の船山=松宝丸。
江差日本海に面し、松前・函館に近い。かつてニシン漁で栄えた土地として有名だが、朝鮮通信使との接点を探れば。瀬戸内海において、北前船の運航経路と積み荷がクロスした可能性がある。
また、北海道は、外交・国防において幕末期に一挙に緊張を増した地域であった。
更にこの地で集積された天然産昆布だが、幕藩時代を通じて重要な輸出品であった。昆布の希少性は、想像以上のものがある。昆布の消費と加工については、日本海側各地にめぼしいものがあるが。流通基点として、富山・敦賀・大阪・長崎・琉球の事跡に見るべきものがある。
いささか脱線したが、上記の2例以外にも、列島各地に船山ガ出る祭りはあるに違いない。
本題である牛窓の唐子踊りに戻る。
朝鮮通信使来日の本来の趣旨は善隣友好であり、外交の本旨はそこにある。
幕府と李朝の間では、数年もかけて準備交渉を積上げて、十分なる頃合いをみて派遣・答迎した。
その外交交渉の窓口に当たったのが、宗氏を藩主に仰ぐ対馬藩であり。釜山に置かれた倭館には,対馬藩士など総勢約500人が常駐したと言う。
幕藩時代(1603〜1867。ここでは家康の征夷大将軍任命の日から慶喜に対して大政奉還を受理する通知があった日の前日までとして計算した)を通じて、12回通信使<うち3回の回答兼刷還使を含めた>が、来日した。
主たる派遣の目的は、征夷大将軍就任に対する慶賀国書の奉呈であったから、通信使の多くは漢城(ハニャン・李朝首都=現ソウル)から江戸(えど・幕府所在地=現東京)までを往復した<時に日光東照宮まで往復>。
外交には、メインの他に付属するポケットが多数ある。
メインは外交官吏が担当する。よってタテマエとメンツと形式・先例に終始する無味乾燥の領域だ。
ポケットの方は、多様な人材が活躍する場面に当たる。今日のテーマである唐子踊りは、このポケットの演目の方から派生した。
ポケット演目を一覧すると多彩である。楽団演奏あり・歌舞音曲・軽業・馬上演技・書画贈答・詩歌交換などなど・・・日韓双方ともに在野民間人の参加・見物を交えて、派手に盛り上がったらしい。
江戸時代の列島民は、戦国の血腥い殺戮と殆どが意義を認めなかった半島侵攻の後に。遅きを失して到来した平和の時代を、心の底から謳歌したいと想っていたらしい。そのきっかけを与えたものの1つが、朝鮮通信使の一行によるパーフォーマンスであった。列島各地がその派手な演目に影響されてか?各地に唐人踊りなるものが、立上がったらしい。各地の祭りに追加演目として新たに付け加えられたが、共通して強調されたポイントは、”歓喜”を表現する点であったらしい。
その後幕末から文明開化の中で、規制されるなどにより減衰・消滅した。現在残るのは、牛窓の唐子踊りと三重県津市&鈴鹿市の唐人踊りくらいらしい。
後者の2地区は、所謂通信使経由地ではない。だが、尾張国よりも西にあることに注目したい。詳述するスペースは無いので、結論だけ述べるが。遺伝学的に日韓同祖が認められる西日本ゾーンであり、この地の住人は、先祖の地から約1,000年くらいの昔に別れた遠い親戚が訪ねてきたくらいの親近感をもって接していたのかもしれない。
通信使の経路だが、対馬〜大阪までは海上航行による往復、大阪以東は陸路を移動した。
海上航行途上の瀬戸内海の各地では、港湾地区に設けられた陸上宿館において、招宴・宿泊するので、異国風俗・芸能を披露し、昼夜を徹して両国人が交歓する景色が随所で見られた。
大阪以東上陸後の陸路宿館は言うまでもなく、行列を成して街道を陽気に進行する「動く異文化」であった。もちろんこっちの方も行進中・休憩中・宿館の周辺で、彼の国の風俗・芸能の披露・昼夜を徹して両国人交歓が繰り広げられた。
受け入れ側に与えたインパクトの強さ・大きさは、沿海航路筋や道中行路以外のほぼ全国から通信使にモチーフを採った書画骨董が残ることからも伺える。それらの多くは、海遊館などの通信使資料館の展示物が如実に物語っている。