にっかん考現学No.57 通信使の7

朝鮮通信使ゆかりの地訪問記編の第1牛窓の続稿である。
通信使史料館の名称は、『海遊館』と言う。昨今は新しいスタイルの水族館がはやるから、水槽は何処にあるの?との質問に冷や汗をかくらしい。
学芸員さんから、平成4年の開館と聞いた。
既に20年以上経過していることや、当時は町政の頃であった事を斟酌すると。その先見性と行動力に驚かされるものがある。市制に移行してからも従来同様眠っているのか、百年一日の怠惰な土地柄か、町のままのような市もあるから、旧牛窓町の関係者に対し絶賛を惜しまない。
言うまでもない初回訪問だから、実にザッと一覧するだけに留めた。
他に比較するような同種の展示施設を見た事が無いし、どうこう言える専門的知見を持合せないが、通信使に関して抑えるべき事項はひと通り抑えてあるものと拝察した。
ただ、一覧性資料など掲げてある展示物は、いずれも江戸期に限定して記載されており、通信使即ち江戸時代なる即断的誤解を招く不安があると、いささか老爺心?を抱いた。
言うまでもないが、通信使の始まりは、室町将軍足利義満からだが。そのことは、ほとんど知られておらず。件名を超えてその内容にまで踏込もうとすると、結構な壁に阻まれるらしい。
その壁とはこうだ。国内的には戦国の混乱期、国内を超えて日韓交流史マターでは織豊政権の言わば不幸な時代と。この2つの壁をクリアーしない事には、内容究明に迫れない。
そのことが直ちに、歴史認識云々に当たるとも想えないが、李朝500年の長さと最長幕藩期でも約その半分しか続かなかった彼我の政権安定の較差を認めないわけにはゆかない。
さて、史料館の名の由来だが、通信使・使行録=海遊録に因んでいる。
1719年、来日した通信使の製述官=申維兪<シン・ユハン=人名だが、3文字目は一文字の旁に過ぎない。これに偏として朝の字の左部分を加えると完成する。筆者の漢字リスト中に該当語が見当たらないもの>
製述官とは、通信使の正式な随員の一人で(派遣年により変動あるも、構成人員約500人超のうち上位1%を占める重要メンバー)、主な役割は公式記録や外交事務を担当することだが。彼に限らず歴代の製述官の多くは、日本側と漢詩をやりとりするなど友好関係の構築に熱心に係わった。
その中でもシン・ユハンは、日本側の随員であった雨森芳洲(1668現在の滋賀県高月町に生まれた〜1755。江戸時代を代表する儒学者対馬藩に仕えて通信使接待など外交に貢献)とも親交があり、日本理解において他を凌ぐ高水準なレベルの使行録を残した。
外交とは、どちらに傾いても落下する軽業の綱(=タイトロープ)渡りのような難しい役回りだが、”信を通わす使い”の字面どおり誠心を貫く覚悟で善隣友好に邁進した日本側当事者の第1人物を仮に推挙するとすれば、多くの人は雨森芳洲<あめのもりほうしゅう>の名を挙げるに違いない。
バランス上から、あちら側もとなれば。筆者は松雲大師の名を挙げたい。
惟政(ユ・ジュン1544慶尚南道密陽郡に生まれた〜1610。仏僧、尊称=松雲大師。2度の日本からの侵攻に対し義僧団=仏教界からの義勇兵=の総指揮役を勤め、加藤清正との講和交渉に当たる)が本名。
彼の功績は、慶長10・1605年3月伏見城徳川家康に謁見して、通信使来日の基を築いたことにある。
厳密に言えば、東アジアにおいては国交や貿易なる概念は、およそ20世紀になるまで存在・成立しなかった。それは中国が世界の中心であると一方的に考える「華夷思想」が厳然としてあったからである。
周辺国は、中国に服属するべく伺いを建て・その許しを得て朝貢する。中国は朝貢に対する返礼として貴重な品々を下賜する。つまり、国交・外交・貿易となれば、対等かつ平等互恵が前提となるが、儒教の基本原理には,何処までも序列=上下の関係のみあって・他は考慮の余地が無いものらしい。
当時の李朝・朝鮮も中国以上に儒教精神が横行する頑迷かつ不自由な国政であった、のも事実だが。日本に対して主体的に動ける立場ではなかった。2度の韓半島侵攻を宗主国=明国から軍隊の派遣を受けて、撃退した立場からすると、宗主国に立向かった不道徳な日本と話し合う事自体が許されないとする立場であった。
しかし、本音では3度目の侵攻を恐れていて、日本の出方を伺っていたし、単独自立できない対馬の孤島事情もよく知っていたはずだ。
そこで、名目民間交渉であれば、いつでも破棄ないし使者派遣の事実すら否定できると踏んだ李朝・朝鮮は、一市井の僧に対して、対日交渉を委ねた。
その李朝・朝鮮の実に虫の良い・身勝手な「プチ華夷思想」が、後に国書改竄=柳川一件なるスキャンダルを招くのだが。ここの主題は列島内&対馬藩でないので、それには触れない。
李朝・朝鮮は、いいとこ取りに徹して。その後明国からも了承を取り付け、通信使を制度化する道に進んだ。彼の功績を説明するにしてはいささか長文過ぎるが、実はまだ続く。
どれほど難しい立場であったかだが、対日抗戦の最大の功労者である李舜臣(イ・スンシン1545〜98。最初の倭乱=文禄の役において水軍を率いて参戦し日本水軍を撃滅した。にもかかわらず全く評価されず一兵卒に降格された。再乱=慶長の役で一兵卒で参戦し昇進復職、海戦で再度日本水軍を壊滅させたが戦死した)と似たような扱いを受けたことが推察される。
そもそも李朝は,前王朝である高句麗を倒して成立したので、仏教を擁護した高句麗アンチの立場からも崇儒抑仏を国是とした。つまり、儒者は高く扱われ・仏僧は蔑まれたのであった。
その点が日本と全く逆転している。
東アジアに共通言語はないが、共通文字=所謂漢字がある。中国人間でも対話よりも筆談する方が確実視されているくらい表意文字は世界文字としての汎用性を備えている。
さてそれを踏まえての僧侶だが、この日本列島で時代を通じて。留学経験があり・最も漢字に長けている集団。それは仏僧であるから、外交はほとんど彼等に専属した。
もちろん、筆談も随行の外交顧問としての仏僧も、ともに通信使にも当てはまる。
日韓のバランスを考えて、双方から各1名を紹介したが。文脈の長さにおいて相当にアンバランスとなった。ご愛読感謝・・・・
最後に、牛窓町は松雲大師の生地=密陽と姉妹都市であると海遊館に掲げてあったことを紹介して、今日の稿を閉じる

朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交 (岩波新書)

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