にっかん考現学No.56 通信使の6

通信使の現場を観る旅のレポートだが、まず第1は牛窓である。
岡山県瀬戸内市にある通信使資料館=海遊館を訪ねた。
牛窓<=うしまど>は、日本のエーゲ海中心として知られており、まさに多島海=瀬戸内の明るい海に面した港町である。町の中のあちこちに、写真で見たあのエーゲ海の風車が見られる。
海遊館は、フェリーが接岸する埠頭の正面に立っている。建物の横にある駐車場から眺めると、背面に高台がすぐ続いているのが判る。標高差は6〜7メーターはあろうか?
海遊館を見下ろすような位置に、立派な塔を構えた寺がある。
通信使を迎える基本的な要素をことさらに列挙してみよう。
○ まず海があること・・・通信使の一行は、釜山から大阪まで李朝朝鮮の外洋航走船を利用した。航海での途中、瀬戸内海では時々に上陸して日本側の招宴接待に応じることがあった。
○ 次に上陸した港に埠頭設備が備わること・・・現代人の知覚をそのまま江戸時代に遡らせてはいけない。そのそそっかしさが、歴史認識云々の誹りを受けることになりがちだ。
帆船時代は、風を捉えて海上航行するため、殆ど運行日程つまり計画=予定はあるものの、殆ど当てにできない。それが現代の動力航海船の定時運行との基本的相違である。
まだある。埠頭に舷側を直接接岸して乗客がタラップを駆け上る、これは映画タイタニックのひとコマだが。これまた現代動力運行船の光景である。
通信使の時代は、埠頭側から艀=はしけ=小舟をもって迎えに往き、要人だけが上陸したのである。その理由は、「風まかせ」と言う辞があるように。帆船を港湾内で操船することがこれまた想像以上に難しかった。通信使の乗る本船は、沖合の船溜まりに停泊したままだが、牛窓の前海はそのような風待ち・潮まちに適した退避港湾であった。
通信使が乗ってきた大型構造船は、当時の日本では建造していないし、技術的に建造困難であったらしい。珍しいスケール・見慣れない大きさであったせいか、絵画の中によく描かれて残っている。
○ 最後の要件は埠頭に接して格好の寺があること・・・招宴接待の会場として、時に通信使高官たちの宿泊用施設としての使用に耐える広大な建造物が求められた。これもまた、海況の推移によっては想定外の中・長期の臨時的な陸上宿泊ニーズが生じた。勿論、日本側の随行者として対馬藩から出向いた役人や通信使接待を幕府から仰せつかった大名の家臣団もまた同じ期間常駐したわけだから、近隣の豪商・民家などが臨時の借上げ宿館にされたようである。
さて、上に述べた大型構造船の建造が、当時の日本では困難であった事情をフォロウしてみたい。
最近、仙台市博物館に所蔵されている書画類が世界遺産・記憶遺産に登録された旨の報道があった。仙台藩伊達政宗が遣欧使節を派遣してから400年めに当たることに因む指定だと聞く。
当時、日本での大船(500石以上=単純換算50トン)の取り扱いだが、江戸政権は慶長14(AD1609)年段階で大船建造禁令を発したばかりか・西国大名の持ち船を江戸湾に廻航させ没収している。後の海禁=俗に言う鎖国=体制は、大阪城陥落以前において既に準備・構築されていたとも言える。
さて、かの支倉常長が乗船して太平洋を横断した黒船(推定トン数500t)は、1613年10月に仙台領内の月の浦を出帆した。その大船を建造したのは誰か?日本人船大工の手にかかったと言いたいが、真相は意外に明確ではない。何故なら、その後間もなく切支丹禁教令が発令されたことやスペイン側にも船舶建造技術を対外移転しない国策があったからである。
推測ながら真相を述べよう。
スペイン人の指導を受けながら日本人が(=幕府の人的支援の下・正宗の負担で)建造したであろう。ここで大事なことは、手の問題ではなく頭脳の中味の方に圧倒的重みがある事である。
大船建造の技術は、当時の日本に無かったし・その後も伝承されず消滅してしまったことに注目すべきである。
遣欧使船の黒船にはサン・フワン・パウディスタ号なる名称があり、しかも当時の日本には太平洋を乗切るための航海術の蓄積が無かったことを考えると、支倉常長が置かれた立場は建造費用支弁した側の乗客とみるべきであろう。
サン・フワン・パウディスタ号の事実上の操船権保持者は、セバスチャン・ビスカイーノ<=当時対日派遣された初代スペイン大使・メキシコに帰国するための唯一の航海チャンスでもあった>&その通訳ルイス・ソテロの2人組であっただろう。彼らはフィリピンとメキシコの双方に植民地を有しつつ・太平洋横断に必要な天文航海法を身につけた根っからの航海民スペイン人であった。
最後に安宅船(あたけぶね)に触れる。
これは、秀吉の朝鮮侵攻に使われた軍船だが、対馬韓半島間の狭い海峡を乗切るのが、精一杯だったようだ。当時内海水面輸送船しか持たない海岸民族日本人の大型船舶建造技術は、残念ながら見劣り著しかったようである。
かの朝鮮侵攻が失敗に終ったのも、開戦初期に海戦で大敗北し、早々と制海権を失ったからであった。安宅船の評価もまた、その範疇を出ないと言わざるを得ない。
今日はこれまでとします