にっかん考現学No.55 通信使の5

前稿著作からざっと40日が経過してしまった。
まさしく光陰矢の如しである。この想定外の空白をざっと回想すると、、、
まず、この間の農作業の苦心を想いだす。関東圏までは、瞬く間に梅雨入り宣言が出た。そんなアナウンスをすることは、必ずしも行政庁本来の業務範疇であると全く考えないが、長年の前例から抜け出すことはこの国がなまじ君主制の過去を背負った歴史があることからしても難しいのかもしれない。無謬をこよなく掲げる役所主義だから・予報は誤報と化したが・訂正も詫びもしない。あえて突っ込むと・予測外れは不祥事とは考えないからだなどと、どこかで聞いたような元外交官のコミッショナーまがいの台詞が還ってきそうだ。
まあ、それは脱線で。実に深刻な日照りが異常なる長期間続いた。
そこで第1の現実は、百姓の繰り言である。
種を蒔いたり・苗を植えたり。些少ながら資本投下し・労働力を注入してしまったら、日照りから我が子のような野菜を護るため必死で水やりに勤めた。植物栽培とは言うまでもないが生命の継続そのもの。うまくゆかなかったからリセットボタンを押して再開とはいかない。
朝の水やりは老体には結構負担であった。
次に、農作業の合間に、取材の旅に2度も出かけた。1度目は約5日=和歌山県南部の熊野地方、2度目は約7日=瀬戸内海の見えるあたり。
出発地から最も遠い=最奥地名を並べておこう。本土最南端の串本&海事の街呉である。
どちらもそこで人に会った。いささか日数を要したのは、取材旅行でもあったからだ。
熊野については、古事記1300年に因んで、日本書紀とも対照しながら列島草創期の古伝承にちなむ土地柄として、将来この『にっかん考現学』の1分節=シリーズとして書くことになろうが、タイトルもテーマも未定で、空手形の懸念無しとしない・・・・
後半の旅は、今日から具体的に書き始める。
ありていに言えば、第3がある。後半の旅から帰って来た翌日から3日ほどかけて、室内の模様替えをした。概ね年2回実施する年中行事だが、今年のように天候不順・予測困難があると、冬から夏への切替タイミングが実に難しい。借家暮らしの悲哀でもあるトホホ・・・・
さて、訪問地を列挙しておこう。
牛窓鞆の浦・鎌苅島の3つだ。何れも通信使ゆかりの地だ、北前船の寄港もあったに違いない。
海事に因む地をマイカーを駆使して陸路から訪問する、かなり安易なアプローチだ。
しかし3ヵ所とも最初の訪問であり、僅かな体験を徐々に積み重ねてゆく第1歩として。極く小さな知識の紹介でしかないが、誤解無きことを祈りつつ書き進めることと致したい。
因に、通信使との関係を述べれば。熊野海岸域は藤堂氏が率いた水軍との関係において、遠い因縁はあり得るが、直接の関係は無い。熊野は下記の事情から、陸海とも通信使の移動経路上にない土地柄なのである。
一般的に移動距離がもっとも遠かった江戸期の経路=漢陽<李朝朝鮮の都、現在のソウル市にあたる>から出発し最遠到達地を日光東照宮とした=を、釜山まで韓半島内は陸路・釜山から対馬まで帆船。大阪以西は海路に拠り・以東は陸路によったのである。
今日はこれまでとします