にっかん考現学No.54 通信使の4

3月から始めた通信使の章だが、緩やかな進捗ペースは今後も変らない雲行きである。
さて、現代彼の国の人と通信使を話題にする時は、”トンシンサ”と声を発する必要がある。
ごく当たり前のことだが、近くて遠い隣国の言語事情なので。殊更廻りくどいかもしれないが、釈迦に説法の愚をやることにしたい。
ハングルは実に厄介、正直苦手である。表音文字に特化し・しかも人体構造や口腔医学、言語音韻学の点からも十分に考慮・検討された特異な人造文字体系であることは、十分に認知する者だが。
表意文字表音文字の両方を同時並行処理に慣れてしまった日本語の利便性に、骨の髄まで染まっている老人にとって。表音文字オンリーの頑さは、実に閉口するばかりだ。
そこでついついあらぬ方向に連想がそれる。あの韓流王朝ドラマの官服を着た小役人どものことである。徹底した序列と事大の生き方とハングルの固さとがあい通う。まるで朱子学儒教に凝り固まってしまい、多様性を欠き・柔軟さを備えない彼らの口から出る声は、ハングルのカタチのまま出てきてるようだ。
言うまでもないが、この日本列島にも表音文字=ひらがな&カタカナのこと=はある。小学生などまるで漢字を使わないで手紙を書く。しかも誤字あり・脱字ありで、読みにくい。
肩が凝る・頭が痛くなる。
そのもっと徹底したものが、ハングル文なのである。
まあ、脱線気味の話題を本道に戻そう。司馬遼太郎氏が日本語の成り立ちについて論じている(以下に筆者流の解釈で紹介する)。
日本語の文字は漢字だ。ついで発音の方だが、こっちは少し複雑だ。
まず百済経由で受け容れた呉音が基礎にあり、7世紀頃遣唐使随行した帰国留学生が長安地域音<説明なしに漢音>を主唱し、持統天皇期に漢音切換を強力に推進したらしい。
この辺の事情は、韓半島も全く同じ。日本列島同様中国文化圏の周縁であるから、状況はほぼ共通だ。
その結果として、一方は『つうしんし』と詠み・他方は「トンシンサ」と声に出す。
そして意味する文字とココロは、半島も列島も共に”通信使”なのである。
前述したとおり日韓関係は一胞帯水=いちえたいすいと詠む=の中にあるのである。
ではどちらの詠みが正しいか?
そう、日本列島人はすぐにそう来る。とにかく1つに絞り込みたがる。1つに決まらないと落ち着かない。モノごとはすべからく1つに収束するとの思い込みが強い。
実に困った国民性の特質である。
名付けて単細胞至上主義である。
明治政変以降の国民皆兵・単純直行・思考排除・過去事無反省・命令遵守の軍制君主政治が形成したごく近代の愚民集団丸暗記教育が作った、かなり新しい困った面の国民性である。
この真に困った性向は、先の大戦で大敗したにもかかわらず義務教育システムの改革がなされなかったので。亡国病に近い単細胞至上主義は、今でも国民の主流層を成す。
さて、そろそろ筆を置くタイミングだが、このままで終ったのでは、後味が良くなかろう。
そこで結論に至るヒントだが、、、、
漢字言語システムを作り上げた当の中国本場の立場はどうであろうか?
書くことは正確であれ、発音は地域・地域に委ねる。
それが本場の考え方だと言う。何と多様にして大らかな、開放的な汎世界性であることだろうか・・・・
つまり百人百様の発声であるからこそ中国文明は、拡大し永続してきたのであろう。
とまあ、あの司馬サンがそのように述べているらしい。
今日はこれまでとします
<注>この日採上げた司馬遼太郎の著作=耽羅紀行46頁以下(街道をゆく・シリーズNo.28)を参照してください