にっかん考現学No.53 通信使の3

日韓間の問題は、いつも原則の確認から始まる。それがどうしてなのか?本当のところは,筆者にもよく判らない。
この地球の中で、最も近く・かつ最も古い関係だが。近親憎悪的な誤解でもあるのだろうか?
さて、冒頭の原則とは、何を意味するか?だが、、、、、
  こちらサイドは、国会議員と現職閣僚のヤスクニ参拝
  あちらサイドは、歴史認識云々を
  それぞれ意味している。
これまた子供の喧嘩みたいなもので、先に手を出したサイドは、あっちなのか?こっちなのかが、それがはっきりしないから。そして互いに譲ろうとしないから。
何度も同じ原則からスタートし、物別れ状態に終始し、結局有耶無耶に。そして友好関係は停滞したままとなる。
ところで、何をもって「友好」とするか?「反・友好」とするか?だが、、、
それがはっきりしない状態もしくはそれをどうこう論じなければならない状態=実はそれを「友好でない状態」と言うべきであろう。
東アジア3国の間には、共通の原理として根底に『儒教』観念がある。
もちろん現在進行形のパラダイムとは言いがたい存在なのだが、現実の家族関係や社会慣行として、個人的な濃淡の差はあるものの、全く排除されてないのもまた厳然たる事実である。
端的な文化事象としての”コトバづかい”の中に、敬語の常用がある如く。人二人の関係においてまず始まりは、互いの上・下の確認からスタートする。
それが即ち、ここで筆者が言いたい『儒教』観念の現存状態なのだが、、、、、
国同士の付き合いもまた。上・下の位置取りに拘っていては、真の「友好」も・あるべき外交も成り立たない。
そのことは、世界の・子供も知る簡単な常識である。
大喧嘩のアトに外交を再開することは、実に難しい。
日韓間の過去において、その難しさを見事に解決したことがあった。
主役は、あのフルダヌキと酷評された徳川家康である。
豊臣秀吉が内なる配下の者たちのほぼ全面・各層の猛反対を押し切って、2度も韓半島に侵攻し。完敗状態で逃げ帰ってきたアトを承けての通信使の再開=外交関係の復活は、極めて至難のことであった。
でも、彼はその困難を解決して通信使再開を果たした。それは幕府が終る直前まで通算12回に及んだ。
今日ここで通信使問題に取り組む1つの理由は、そこにあるかもしれない
過去に起ったことが、どれほど自己に都合の悪いことであっても。その事実を無かったことにすることはできないし・その事実が相手にとって苦渋の過去である場合は二度と再び起らないようにしようと努力する姿勢を見せ続けなければならない。
要するに、誠意と誠実な行動とが、乖離してはならないのである。
家康が行ったことは、言わばそんな当たり前のことであったようである。現代の我々はほぼ400年前に行われた彼のやり方から、何かを学ぶ必要がありそうである。
ここで些細なことだが、再言しておく。通信使は江戸期において創始したのではなく、再開したことである。大方の列島人に誤解がありそうなので、あえて再言明示したい。
これまた歴史認識マターの1つ=外交の相手国である李氏朝鮮は、1910年に併合されて滅んだ時すでに500年超も経過していた。
ここからも家康君からも学ぶべきだが、具体的教訓が何処らへんにあるか?
それはこれから少し時間をかけて調べることと致したい。
ただ簡単平明な事実が1つだけある。
それは、彼の時代に軍人の霊を祀る神社ヤスクニが無かった。ことである。
今日はこれまでとします