にっかん考現学No.52 通信使の2

通信使の第2稿である。
何故に?今,この時点で通信使なのか?
現代において、過去の歴史的事象を論ずる事に、果して何ほどの意味があるだろうか?
今月からこの新しいテーマを掲げ始めたばかりなので、ジャストの答らしい明言はまだ出来ない。
追々、何らかの答を出すべく努力致したい。
日頃、古い事をあれこれ詮索するのは、習いとなってしまっており、その方面の収蔵本も最大のシェアを占める。しかし、単なる物知り自己満足や他者に聞かせる自慢話にならないよう自制しているつもりだ。
その点で、市販の書物にある知識は、単なる受売り情報でしかなく。自分なりに、テーマを探したり・テーマを掘下げるための方法論を身につけるための材料と考えている。
さて、前稿で書いた事の一部繰返しだが、JR松任駅前にある千代女の里俳句館の前庭にある展示物。その絵柄に通信使の行列を描いてあった。その地理的な違和感から筆者の疑問が始まり、昨年は、とりあえず釜山を電撃訪問したのであった。
極めて稚拙なアプローチの仕方であり、非効率そのものだが。一方で耳学(みみがく)のみ高みに届いて、よしとする、これまでの生き方に猛省すべき安易さがあると感じている。
なるべく何度も現地と当地とを行き来する事で、じんわりとハラで判ってくるものが大事なのではないか?と考えている。
一胞帯水<イチエタイスイと詠む。筆者の造語である。既製語の一衣帯水を踏まえているが、少し訛ってエとイの発音を曖昧にしておきたい。要するに日本列島と廻廊半島との中間に存在する日本海=別の名では東アジア地中海とも言う=をさすが、筆者の用法は、”一衣”のほうが空間的近隣関係に留まるに対して・”一胞”のほうは人類学的近縁関係を強調しているものである。
言わんとする処は、日韓の同祖関係にあるが。その事を多くの列島同胞に説く事は難しいようである。
通信使のタイトルからは、いささか遠い展開となるが。江戸時代の列島人たちは、秀吉が起こした2度の侵略戦争を経てから来日した通信使の一行を、どのような眼で見ていたのだろうか?
その答の1つを、筆者はあの司馬遼太郎氏の著作の中から得る事ができた。筆者流に表現すれば、江戸の庶民たちは、通信使の中に遠い昔に別れた古い親戚の面影を見たに違いない。その古い親戚とは、自らの先祖が発進した一族の本拠の地に今も住み続けている、今は互いに言葉が通じなくなってしまった「はらから」と対面した想いであったに違いない。
この筆者の発想は、明治政変を過ぎたことで、近代国・社会の優等生に変身した成功者であると。自らを高く評価している、現代列島人=大勢を頼みにする=大多数にはおよそ理解しにくい。誠に妙な展開であろう。
それだけ、現代の受験歴史しか身についてない知見では、巧妙に隠された軍制下の君主統治イデオロギーを否定したり・ある意味歪んだ勝者に絶対の価値基準を置く”勝てば官軍式のパラダイム”を超越したり・優勝劣敗と無縁の世界観に改める事ができないと考えるべきである。
司馬さんの著作は、受験歴史による知見の遥か彼方に存在するところの・正確な国境観念を踏まえた・すぐれた歴史観に基づいている。
今日はこれまでとします。
<注>本文中で、触れた司馬遼太郎氏の著作とは、「韓(から)のくに紀行」である=朝日文庫街道をゆくーシリーズ全43巻のうち第2(2008年8月刊)。
なお、具体的には、倭と倭人についての記述=97&138頁・・・・古代・半島地帯における韓人と列島人と
の雑居・混住を述べた箇所を指す。因に原著の時期は、1971.7〜翌72.2月の週刊誌連載。出典を示さない記事なのでフォロウする手だては無いが、この著者の記述スタイルからして信頼性は高いものがあろう