にっかん考現学No.40

前稿まで9日毎のペースで執筆して来たが、選挙期間中であることを回避したわけではないが、結果として18日が経過してしまった。
さて、今日は葬送儀礼について、ごく簡単に想うところを述べてみたい。
東アジアの3カ国は、概ね似たような先祖供養を行うが、細かい点では似ていない点もまたある。
中国大陸の儀礼は、文献化された時期が古いことは客観的事実だが。単にそのことを以て、周辺国や地域の葬送儀礼の発源点が、中国であるかのように喧伝するべきではない。人類史の始まりは、もっと古いし。文献時代が人類史の太宗でもないから、徒らに正統性の根拠を中国作法に基づかせる必要は全くない。
ただ、考古学的に発掘された事物そのものは、精神的要素の成り立ちについて何ら自らは語らないし。考古学的観察に基づき研究者の推定や推測に留まる点において、学問上の制約なり・限界なりがあると言わざるを得ない。
誤解を恐れずに表現すれば、解ることと・感ずることの差異は、厳然と存在し続ける。と言うべきであろう。
その点では、考古も文献も大差は無いのである。
現代列島人が体験する葬送は、まずもって墓に尽きる。家族墓か?個人墓か?他国・他地域と比較した場合、圧倒的な差異がそこにある。
家族が時期を同じくして死に逝くことは皆無ではないが、稀である。従って、個人を葬送する儀礼は、墓への埋葬を除けば、神道式であれキリスト教的作法であれ、仏式であれ、大差は無いと言える。
これを踏まえ、以下は主として墓について考えることになる。
現代の列島では、家族の墓=家の墓に埋葬されるケースが多い。同じ家に住まいした者が原則として再び墓の中で相見えるわけだが、そのことを美しい家族愛と考えるか?どうか?は、それぞれの構成員の心情なり・個別家庭の状況なりで異なる。
しかも、その家族墓が、仏寺の境内敷地にある。これがまた、列島の不思議なのである。しかもそう指摘すると、全く疑いを抱かないで来た列島人が多いから、猛烈な反発を招くことになる。
もちろん家族墓には、メリットもある。国土が狭い=その空間特性を考えると合理的な土地の有効活用と言えるかもしれない。
ただ、昨今は、ヴァーチャル墓など。IT手法により、目の前のスクリーンに立体映像式に墓を見せるものがある。これは、理論的に全く土地を前提としない点において、究極の合理的空間利用術と言えよう。
さて、仏教と葬式の合体化の民衆的受容が、東アジア文化圏の中で列島固有の隣国と際立つ相違点である。徳川時代に導入された特異な習俗化した行動様式にして。数百年程度の近過去において、強制され定着した。
言わば、「吉利支丹伴天連恐怖症候群的異様仏教傾斜」であり、廃仏毀釈なる愚行の遠因となった奇習でもある。
著者の体験だが、隣接文化圏たる中国にも韓国にも仏寺はあるが、信者の墓地は見当たらなかった。つまり、葬送と仏教者が重なる儀礼は、日本独自の近代的風習である。
先祖供養と墓の間に、どんな関係があるだろうか?比較文化的に簡易に考察してみよう。
アジア文化圏には大別して2つの生活様式が認められる。
1は、移動を前提とする例えば遊牧民の系譜をもつ社会
もう1つは、漁業・栽培農業を基本とする、所謂定住民の社会
の2つである。
相互に対局にあるものとして排除かつ固定・画一化することは、誤解を招くので注意したい。
つまり、理想たる定住は、結果的に短期的定住で終ることが多いのが,歴史の体験的実相である。
まず第2の例だが、概括的・要約的に略述すると、典型例は沖縄などの南方諸島である。
海岸での採集生活は、意想外に定住条件の完成度が高い。亀甲墓の例に見るとおり、女性の役割が最大または中心的役割を果たしている。オーストロネシア系の人種的系譜と重なり、女性を最高位の神に置く古事記世界との直接的関連性が指摘される。
次に第1の例=その対局にある移動民の墓だが、墓はほぼ無いに等しい。
作られても早晩放棄される運命であり、圧倒的に個人墓である。先祖供養の祭主は、圧倒的に男であり、葬送儀礼は概ね男が担う仕事である。
稿を終わるにあたり、筆者の卑近な事例に関して構想めいたことを述べる。
商家系の4男坊に生まれたから、長男=家の承継者の身にのみ備わる家屋や墓はもちろん無い。つまり、あっけらかんとして、さっぱり身軽な立場である。
しかも、死後の世界=来世の存在を、我が身に限れば容認しない。ここで、我が身に限る意味は、何かと言えば、他人が信ずる分には一向構わないのであって、社会儀礼程度の対応として、香典もお参りもする。宗教者の存在を否定しないし、集団的迫害を受けたりすることが無いように、器用に振る舞って来た。
家族は妻子の都合3人だが、自分が最初に逝く予定なので、アトのことは一切考えないし、申し渡すこともまた無い。遺された者がやりたいようにやるだけで良い。
仮にその予定順序が崩れたとしても、家族のために墓を用意する事態は、全く考えられない。
墓の存在自体が、金の無駄使いであり、この狭い国土を更に狭める愚行だと想う。要するに墓ははかばかしくない・バカらしいモノと想っている。読者に石屋が居ないことを祈る。
今日はこれまでとします